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下校中、街路を並んで歩くオクラの顔には心地よい疲労が見て取れた――と判断を下された。
いまや顔も名前も覚える必要がない。網膜や鼓膜を通して入力された外部情報は即座に脳に埋め込んだマイクロコンピュータによって、これは誰の顔だとか声だとかが判別される。相手の表情だって見さえすれば、どういう表情なのかの判断はコンピュータがしてくれる。
表情や言葉の読み違いによるコミュニケーションの齟齬はすべて過去のものとなった。
ささやかな誤解から来る人間関係によるストレスは激減したのだ。
「本番には間に合いそうか?」
「どうだろう、まだ発声で怪しい箇所がいくつかある。両唇破裂音はクリアしたけど軟口蓋で調音する音は難しいかな、プログラムを調整すればいけるかな」
「ま、そのへんは任せるわ。ハードウェアに関するもんなら俺がやる」
オクラは手先が器用だ。
「任せるよ」
僕は『信頼』と受け取られる表情をつくる。
僕は自宅のアパートにひとりで住んでいる。アパートは時代に取り残されたように古びていた。父が事故で亡くなって五年が過ぎた、母は僕が産まれたあとに産後うつで自殺している。
気まぐれに開けた郵便受けには大量の郵便物が溜まっている。電子メールの確認も怠っていたので、業を煮やしてこんな回りくどい真似をしたのだろう。
玄関に上がりながら、高橋ツイナ様へ、と書かれたうちのひとつを開けてみた。去年、僕がつくったゲームの権利を買い取ってくれた企業からのものだった。報酬はもう受け取っていたし、用はない。それでも堅苦しいビジネス文書を視線でなぞれば、コンピュータが内容をまとめてくれる。
やはり、新たなプロジェクトの監修を任せたいらしい。無視する。
自動で点灯した明かりのもと、狭い室内のデスクの上で、立体映像が流れだす。
もう始まっていたのか。
それは音楽のライブ配信だった。装飾を削ぎ落とした黒いワンピースドレスを着た同い年の少女が歌っている。
宵谷ネハン。
その歌声は百億光年先まで伝播すると称賛されている。
僕たちはこの歌声を再現しようと試みている。
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