蛙を轢き殺した

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蛙を轢き殺した

   ただ、自己紹介をしただけだった。  教室中のぎょっとした視線が僕に集まる。集まって、一斉に離れていく。そして聞こえてくる、くすくす、という笑い声。  笑われている。その事実にいたたまれなくなり、座ることもしゃべることもできずに俯く。そんな僕を見て、誰かが言った。 「コイツは、今日から蛙だな」  それが、中学校に入学した日の出来事。  そして今日、教壇の上には教室中の視線を釘付けにする転校生が一人。さらさらと流れる黒髪に、透き通った瞳と白い肌。夜みたいにぞっとするほど美しい少年が穏やかな笑みを浮かべて佇んでいた。  さぞ綺麗な声が出てくるんだろう。誰もがそう思った。教室中の誰もが、彼の最初の一言を待ち望んだ。だが、彼は話さない。声の一つも発さない。その代わり、彼は小脇に抱えていたスケッチブックをかざす。そこには、綺麗に書かれた漢字が四文字。 『天羽颯太(あもうそうた)』  きっと、これが彼の名前なんだろう。しかし、どうしてこの転校生は自分の声で自己紹介をしないんだろうか。僕らの疑問に答えるように、ずっと黙っていた中年の男の先生が口を開く。 「えー、天羽は生まれつき声が出ないそうだ。だから、なんだ。みんな、天羽に優しくな」  そう言って、先生は天羽君を哀れむようにじっとりと見た。女子生徒達はそんな先生の言葉など耳に入っていない様子で、突然舞い降りた転校生の姿にうっとりと見入る。女子達が早速天羽君の虜になったことに気づいた男子生徒達は、彼に対して嫉妬の目を向けた。  美しい彼は、先生に指さしで伝えられた席に座る。一番後ろの、隣に誰もいない窓際の特等席だ。  僕も、その席が良かったな。  彼に対して嫉妬心すら沸かない僕は、ぼんやりとそんなことを思った。  休憩時間になると、天羽君の席の周りには女子達が群がった。それを男子達は気持ち悪いものを見るように、遠巻きにじろじろと眺めている。  クラスの女子達の先頭に立つ仕切り屋が、彼の世話を焼き、クラス一人一人の顔と名前を名簿順に教えていった。意図的に飛ばされた僕の名前に、天羽君が首を傾げ、スケッチブックにこう書く。 『この人はいいの?』  その文を見て、「ああ」と女子達は顔を見合わせた。 「蛙のこと? いいのいいの。アイツは天羽君と真逆なんだから」  くすくす。あの日と同じ笑い声が背中を刺す。すっかり慣れてしまった陰口に居心地の悪さを感じながら、僕は本へと目線を落とした。  結論から言うと、天羽君はすぐにクラスで孤立することになった。噂によると、女子達のリーダー格からの告白を断ったのが原因だとか。元々男子達からも嫌われていた彼に、味方なんていない。だけど、天羽君はそんな状況になっても変わらず堂々と振る舞っていた。その姿が蛙と呼ばれる自分とはまさしく真逆で、素直にかっこいいと思う。気づけば、僕は彼を密かに目で追うようになっていた。どうしてかは、分からなかった。  僕と天羽君の一方的な関係が変わったのは、突然のことだった。  中学校に入学してからというもの、僕は昼休憩、誰も来ない四階の階段に座り、本を読んでいた。ここは電気が切れていて暗いから生徒も先生も寄りつかない、僕に似合いの特等席だ。一人になれるこの場所で読書をするのが、僕の日課。でも、この日は先客がいた。この湿っぽい階段を一気に照らしてしまうような美しい彼。天羽君だ。  どきっ。  静かに座っている彼を見て、心臓が大きく跳ねた。僕は何だか悪いことをしている気分になって、回れ右をしてその場を去ろうとした。だけど、それはできなかった。僕の重い足音を聞いた天羽君が、こっちを見る。彼はさっと立ち上がると、逃げようとしている僕の肩をむんずと掴んだ。強い力。僕はあっさりと彼に捕まる。  やっぱり、僕、何か悪いことしたのかな。  僕は怖くなって、振り返ることも無理矢理逃げることもできなくなって、固まった。そんな僕の前に、天羽君は回り込む。真正面から見ると、本当に綺麗な人だ。彼は真顔で、僕の前にスケッチブックをかざす。そこにはこう書かれていた。 『なんで、いつもボクのことみてるの』  ばれていた。  変な汗が噴き出た。天羽君はスケッチブックをめくる。 『なんで、キミはこえをださないの』  彼は、さらにページをめくる。 『ボクのこと、バカにしてるの』  違う、違うよ、天羽君。  何とか目でそう伝えたくて、彼の顔を見た。怖くなるほど綺麗で、美しくて、僕を見下したような表情。ぐっと、何かが喉に詰まる。もう駄目だと思った。僕は観念して、たどたどしく口を開く。  「ち……ちがう……僕……僕は……」  瞬間、天羽君の怖い顔がころっと変わった。きょとんとした、僕と同い年の少年の顔。それが少しずつ、少しずつ堪えきれないという表情に変わり、彼はしゅーしゅーと息を吐いて笑った。くすくす。そんな笑い声が聞こえたような気がした。僕はこの日を境に、昼休憩に読む本を図書館で借りなくなった。  僕と天羽君は、いろんなことを話した。嫌いな科目、難しかった宿題、近づいてきたテスト、先生の愚痴、クラスメイトたちの嫌なところ、最近むかついたこと……。天羽君は意外とおしゃべりで、スケッチブックの白いところがなくなるくらい、たくさんのことを話してくれた。中身を見られたら困るから、昼休憩が終わるとページを破ってくしゃくしゃにして捨ててしまうのが少し寂しかったけど。とっても綺麗で手の届かないところにいるような天羽君は、こうして話してみると何てことない、僕と同じ中学生だ。そんな彼と一緒にいるのが心地よかった。天羽君は、僕が声を出しても嫌がる素振りを見せなかった。彼はただ、僕が話すのを最後まで聞いて、満足そうに微笑むのだ。天羽君は僕の声のことをこう表現した。 『まるで、カエルをひきころしたみたい』  他のクラスメイトに言われたら、僕は悪口だと思っただろう。でも、天羽君は違う。美しい彼に笑いかけてもらって、こう言ってもらえたことが、僕は何より嬉しかった。  そんなある日、学校で合唱コンクールの練習が始まった。声が出ない天羽君はクラスの列に並ぶことすら許されず、ただ、僕らが歌うのを観客席で見ることになった。天羽君は他のみんなが教壇に立ち、先生の指揮で歌うのを真顔で席から眺めていた。  そして、歌の練習中の出来事だ。  僕は声を出すのが嫌いだ。でも、合唱の練習はしないといけない。これだけの人数が歌うんだ、他のクラスメイトの歌声に紛れて、僕の声なんて分からなくなるだろう。そう思った僕は普通に歌った。だけど、何かがおかしい。周りの人の声がぐちゃぐちゃになっていく。その汚い音は次第に広がり、最後には全員の歌声がおかしくなっていった。先生が指揮を止める。クラスメイトたちが口を閉じる。最後に残ったのは、反応が遅れた僕のだみ声だった。みんなが僕を見る。先生が咳払いをし、こう言った。 「あー、蛙。お前は歌わんでよろしい。口パクしとけ。分かったな」  くすくすくす。  周りから聞こえてくる小さな笑い声。それは集まることで大きくなり、まるで合唱のように教室に響いた。僕は「はい」と言うこともできず、席に座っている天羽君を見た。彼は心底満足そうな表情で、僕を見守っていた。  その日から、僕は歌うことを辞めた。僕が歌わなくなったことで、クラスの歌声が一つになり、綺麗な音色を奏でた。だけどそんなもの、天羽君の美しさには適わない。天羽君は相変わらず、歌うことを許されない僕を笑顔で眺めていた。でも練習を重ねていくにつれて、その笑顔も真顔になっていった。きっと、僕が置かれた理不尽な状況に怒ってくれていたんだろう。そして、合唱コンクールが午後に迫った日の昼休憩のことだった。 『キミは、このままでいいの?』  すっかり僕らの居場所となった暗がりの階段で、天羽君は僕にスケッチブックを見せた。 『あいつら、キミのことをバカにしてる』 「……でも、仕方ないよ。僕はこんな声だから……」  僕が俯きながらそう言うと、天羽君はスケッチブックに大きく、さらさらと文字を書く。綺麗な、落ち着いた字だった。 『うたいなよ、カエル』 「え?」  僕は天羽君が何を言っているか理解できなくて、すっとんきょうな声を上げてしまう。そんな僕を置き去りに、彼は続けざまにこう書いた。 『ボクは、キミのうたがききたい』  どくっ。  心臓が大きく跳ねた。天羽君の顔を見る。とんでもなく美しく、優しい微笑みだった。僕は何か言おうと、口を開いた。ちょうどそのとき、昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴る。  ぐしゃっ。  そのチャイムを合図に、天羽君はスケッチブックのページを破ってくしゃくしゃに丸めた。そして、その紙くずを近くのゴミ箱にぽいっと投げ入れる。天羽君は行こう、と促すように僕を振り返った。相変わらず綺麗で、ぞっとするような笑顔だった。  昼休憩が終われば、すぐに合唱コンクールが始まる。僕は天羽君と別れるとクラスの列に並び、体育館へと移動した。僕のクラスは一年一組。発表順は全クラスの中で一番目だ。体育館へと移動し、発表を待っている間にも天羽君の言葉が頭の中をちらつく。 『ボクは、キミのうたがききたい』  発表の時間がきた。僕はクラスメイトたちに囲まれながら、全校生徒の前に立つ。ステージに上がると、観客席がよく見えた。たくさんいる生徒の中でひときわ光を放っている場所を見る。天羽君が、僕を真っ直ぐ見ていた。優しい、優しい目で、僕を見ていた。  先生が指揮棒を振り上げる。ピアノの演奏が始まる。  僕は今から、蛙を轢き殺す。  蛙を轢き殺した 完
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