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出会い
「やめろ!約束が違うだろ!」
こんな場所には似つかわしくない大声で怒鳴っているのは、入江 夏稀だった。
男の手を振り払い、廊下の端のエレベーターへ向かって走る。
乗り込むと急いで扉を閉るためにボタンを連打した、ゆっくりと閉まる扉の隙間から醜く歪んだ男の顔が見えた。
息を弾ませシャツのボタンを掛け直す。
優しそうな印象と好みの顔に騙され、寂しさを紛らす為に男を誘ったのが間違いだった。
ホテルに着いた途端男の態度は豹変した、まさかあの顔でサドだとは思わなかった。
いきなりズボンを脱がされ、露わになった下半身を鷲掴みにされ、ペニスをネクタイで縛られた。
嫌がる身体を押さえつけ、馬乗りになった男がニヤリと笑った。
すぐさま突き飛ばし、脱がされたズボンを身につけると、男を振り払ってホテルの部屋を飛び出した。
エレベーターの中で、脱がされたシャツを羽織った夏稀は階数表示を睨みつけ、到着するや否や扉が開き切るのも待ち切れずにエレベーターから飛び出した。
そのままエントランスを進み、ホテルをあとにした。
ホテル街に人影はなく、街の喧騒はほんの少し先だというのに取り残されたような、寂しさを感じた。
夜空には星も月もなく薄暗い道が続いていた、ネオンの明るさを求める蛾のように、無意識に明るい方へと歩いた。
あと少しで大通りへ出ようとした時、いきなり腕を掴まれた。
振り返ると、腕を掴んでいたのはホテルに置き去りにした男だった。
男は怒りも露わに腕を掴んだ手に力を込め、睨みつけた。
「おい、坊主舐めてんのか?」
「あんたが約束破ったんだろうが」
「だからなんだ、金さえ払えば何やったってかまわねーだろ」
「金なんて貰ってねーよ」
「払えばいいんだろ、来いよ」
掴まれた腕を引くと同時に、男の向う脛を蹴った。
男が痛みにうずくまった隙を狙って全力疾走し、明るい大通りへ出と思ったその時、通行人にぶつかった。
ぶつかった拍子に後退り、よろめくと同時に足がもつれて座り込んだ。
ぶつかった相手を確認しようと顔を上げると、デカい男が仁王立ちして見下ろしていた。
「すいません」
そう言いながら、男の人となりを観察する。
男は背が高く、スーツの上にはロング丈のコートを着ていた。
日本人には到底着こなせないロングコートを着こなし、その下のスーツも見るからに上質な感じがした。
黒い革靴は今磨いたばかりだと言われても納得できるほど、ピカピカに磨かれていた。
男はそこはかとなくオーラが漂い、どう見てもビジネスマンには見えない。
かと言って、その筋の人のような、危ない感じはしなかった。
一体こいつは・・・・・思考を巡らししばし男を見つめれば、怪訝な顔の男と目が合った。
慌てて視線を外した夏樹は立ち上がると、汚れた両手をはたいた。
「大丈夫か?怪我は?」
「大丈夫だよ」
そう言い終わらないうちに、後ろから肩を掴まれその痛さに振り返ると、さっきの男が鬼の形相で睨みつけていた。
「また、あんたかよ!いい加減にしろよ」
「テメェ!それはこっちのセリフだろが」
「悪いが、おれ今夜はこの人と一緒だから」
夏稀はそう言いながら、男の腕に縋り付いた。
上目遣いに男の顔を見ながら、なんとか話を合わせてくれないかと、視線で念じた。
すると、男は夏稀の気持ちが通じたのか、とんでもない事を言った。
「こいつが何やったか知らないが、こいつは俺の子猫ちゃんだから、手を出されると黙ってる訳にはいかないんだが」
「こいつが誘ってきたんだぜ」
「そんなわけないだろ、それともなにか?俺の子猫に用があるなら俺が相手になるぞ」
男は夏稀の肩を引き寄せながら、顔を覗き込んだ。
相手の男は「ハァ」と一言ため息をつくと、ひらひらと手を振り立ち去って行った。
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