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幕間5
「濡羽、サイ、お茶にしませんか?」
いろはは、抹茶の粉が入った棗を取った後しまいなおし、「濡羽はお抹茶がお嫌いでしたからみんな緑茶にしましょう」と立ち上がり、水屋から急須と茶筒を持ってきた。
「アノ玉、懐かしかった。お屋形様ガ塗ったヒト」
「そうでございましたね。まだあの頃は私よりも、お屋形様が爪紅をされることが多かったですね」
湯呑の湯気が肌にあたる。
「サイは、イナカッタ頃」
「お前が余計なことをして俺を引きずり込まなければ、ずっと染物師として生きていたのに」サイがいろはを一にらみしてお茶を一気に飲んだ後、茶室から出ていった。
いろはと濡羽が残る部屋にピシャリという障子戸の音が響いた。
「いろはは、サイの命を助ケタノニ、ナンデ言ワレルがママ放ッテオク?」
濡羽は頬をふくらませる。
「濡羽、ありがとう。でもね、私にとってサイはとても大事な人だから。命より大切な……」
たとえ、彼が何も覚えていなかったとしても。サイが生きていてくれさえすればいい。いろはは秘密バカリ、とつぶやいた濡羽に少し困った顔で笑いかける。
この爪紅庵にいつまでいなければいけないのかは、わからないけれど。いろはは目をつぶって茶室の柱によりかかった。みずきの祖母とお屋形様のやり取りを思い出す。
『どうか、私を義雄さん……夫に会わせてください。ずっと一緒にいたいのです』
『そうですネェ、方法は2つあります。ひとつは、このまま命の火を消し、魂をご夫君の下に送ること、そしてもうひとつは、体に魂を閉じ込め、念だけ彼のところにいくこと。どちらになさいますかネ?』
『本当は今すぐに、彼のもとに行きたい……でも、孫の、みずきのことも見ていたい。あの子は、義雄さんがなくなったあともずっと私を支えてくれたから……だから、体に魂を閉じ込める方でお願いします』
——お客様は、お祖母様にとても想われていたのですよ。うらやましいことです。
その場面が終わると、脳裏に爪紅庵での様々な客とのやり取りがとぎれとぎれに現れては消えていく。その後で自分の意志とは別に思い出したくないことが現れる直前のうすら寒さがやってきた。反射的につぶる目に力がこもる。
『お前なんかいなくなれ、疫病神』……金切声と共に思い切り突き飛ばされた衝撃が襲う。子どもの泣き声が響き渡る……やはり何度も繰り返す苦しい記憶がよみがえった。
「おい、いろは、どうした? お前がおかしいって濡羽が血相を変えて俺のところに来たから」
気が付くと、ぐっしょりと汗をかき、目が覚めた。自分の着ている若草色の着物の袖が目に入る。
頭を上げると、濡羽が心配そうにいろはを見下ろしていた。サイがいろはを抱きかかえている。いろはは肩で息をすると、天井を見上げた。
「なんでもございません、夢見が悪かったのです。頭を冷やしてきます。申し訳ありません」
最近、平穏だったから……久々に嫌なことを思い出してしまった——いろははうつろな表情で立ち上がると、2人を置いて茶室を後にした。
【5章へのご来店もお待ちしております】
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