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1章 赤根梨加
早く結婚したかった。なぜって、『赤根梨加』という私の生まれた時の名前が大嫌いだったから。そもそも、名前があかねちゃんなんだか、りかちゃんなんだかもわからなくて紛らわしいし、小学校低学年の時に、当時爆発的に流行ったドラマの主役の名前にそっくりで。珍しい苗字に起こった無駄なミラクルのおかげで、あだ名がしばらく『カンチ』になった。
——ああ、思い出すだけでもムカつく。
だから、結婚して、苗字が変わって全てが順風満帆だったのに。
大好きだった人と、どこからボタンが掛け違ったのかはもう覚えていない。子どもが生まれて、ただただ目の前の子育てに必死になっていただけ。夫もそれなりに気を使ってはくれたけれど、ほぼ毎日お酒を飲んで帰って来るのが腹立たしかった。付き合いだから仕方がないって頭ではわかっているんだけど、こっちは、授乳があるからお酒も飲めないのに、いいご身分だよねってどうしても思ってしまった。
ようやく子どもがまとまって寝だした頃、彼が「久々に、ゆっくりと、話をしない?」と耳元で甘く囁いてくれたことがある。久々にドキドキしたのに、口から出てきたのは、「話をするくらいなら、1秒でも早く寝たい。そんな気分になれない」という裏腹な言葉だった。彼は、息をのんで二度と甘い言葉をかけてくれなくなった。その耳元の記憶が私を何度も傷つける。
「それでアタシはカンチに逆戻りですよーだ」
「梨加さん、『Bar ROCCO』は、居酒屋とは違うんです。紳士淑女が楽しくお酒をたしなむ場で……」
「なーに言ってんのよ、『100人乗っても大丈夫―』のクセに! そもそも、もう誰も客なんていないじゃない」
『Bar ROCCO』のオーナー、六浦浩志のあだ名もいい加減ひどい。お母さんが『B’z』の稲葉さんの大ファンで息子に同じ名前をつけたせいで、某物置会社のCMのフレーズがそのまま採用されてしまった。そんな気の毒さが縁なのか20年以上付き合いがある。
「もう、そんな高校時代のあだ名で呼ぶ人、もはや梨加さんぐらいだし、うちの店が開店休業みたいな言い方しないでくださいよ。明日も仕事があるんだから平日はお客さん早く帰りますって。それより、梨加さんはお子さん、大丈夫なんですか?」
「元ダンナのうちに泊まりに行ってるの。あの子もあっちが楽しいみたいだから願ったり叶ったりよ。私だって普段は頑張ってるし。シングルで、会社と子育てで余裕もなくてさ、ごくたまに親とか元ダンナのスネかじって息抜きするくらいバチ当たらないでしょう」
元ダンナなんか普段は面倒見ないんだし、両親の面倒もゆくゆくは見なきゃなんだからお互い様だし、明日は会社有休だし。バツイチ子持ち、ジジババ付きのアラフォー……こんな条件の女なんて、有給取ったところで色気のある予定はそうそう転がっているワケない。
「あぁ、もう。泣かないでくださいよ、誰もそんなこと言ってませんって。梨加さん……深酒するとタチ悪いなあ」浩志の声が、頭の上でフェードアウトした。
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