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気がつくと『Bar ROCCO』で寝ていたらしい。身体を動かすと、肩に店のひざ掛けがかかっている。浩志がかけてくれたのだろう。ため息が出た。
「あー、また、やっちゃった……帰ろ」
グラスの氷はすっかり溶けて、ウィスキーがほぼ水になっていた。生ぬるくなっていたチェイサーの水を飲んでカウンターを見渡すと、『2階で在庫整理しています』という浩志が書いた走り書きのメモを見つける。何度か上に向かって呼びかけたけれど反応はない。仕方がないのでグラスの下に一万円札を挟み込んで、店を出た。
夜風は寒い……というより痛かった。梨加は「さっぶ」とつぶやきながらマフラーを口元まであげて身をすくめ、一歩一歩足を動かす。しばらく歩くと、電灯に照らされて妙に明るい門が見えた。今時珍しい、和風のたたずまい。扉は開いていて奥の暖簾がひらひらと舞っていた。中からは、甘い香りが漂ってくる。
「いい香り……和風のカフェかな。ここは何度も通ったことがある気がするけど、こんなお店、あったっけ――」
時計を見ると23時59分。その途端に、お腹がぐぅと鳴って、思わず梨加は周りを見渡した。
聞こえる距離に誰もいないことにホッとし、門に近づく。いちごのような甘い香りに誘われて、門の石畳を歩いて暖簾に向かった。ちょっと遅くなったって、いいか。何か食べていこう。暖簾をくぐると、紅色を少し薄くしたような着物を身にまとった女性が三つ指をついて深く頭を下げたまま出迎えてくれた。うなじがひどく色っぽい。
「『爪紅庵』へようこそ、お客様。お待ちしておりました。ささ、どうぞ、お上がりくださいませ」
「つまべに……あん? 変わった名前ね。ここは喫茶店……なのかしら?」
「いいえ。爪紅庵は現代風に言い換えるなら、ネイルサロン、でございます」
「あら、いい香りがするから、喫茶店だと勘違いしたんです。おなかがすいたから食べて帰ろうかなと思ったんだけど、ネイルサロンじゃあ、何もないわね。ごめんなさい」
「まあまあ、お待ちくださいませ、あなた様はうちのお客様に間違いないようですよ」頭を下げていた女性は顔を上げて、満面の笑みで梨加を見上げた。
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