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第1話 アイドルとマネージャー
「みんなー! 今日は来てくれてありがとー!」
男性アイドル、神楽坂咲夜がライブ会場で声の限りに叫ぶ。
彼のファンは「さっくーん!」とこちらも絶叫し、今にも気絶してしまいそうな熱狂に取り憑かれていた。
観客の大渦は、めいめいに『さっくん♡こっち見て♡』など、彼を応援するためのお手製のうちわを胸の前に掲げ、咲夜の歌にうっとりと聞き惚れる。
「それじゃ、今日最後の曲、みんなも一緒に歌おうな!」
眩しく熱いスポットライトに照らされて、汗だくのアイドルはラストナンバーを歌い上げた。
割れんばかりの拍手を受けて、咲夜は達成感を味わっていた。
……のだが。
「あーーーー……疲れた。もうライブなんかやりたくない」
「まだ全国ツアー初日が終わったばかりですよ、咲夜」
車の後部座席にどっかりと身を預ける咲夜に、マネージャーの吉田が運転席からミラー越しに彼を見て、思わず苦笑してしまう。
少し、このふたりの経歴について紹介させていただきたい。
神楽坂咲夜は人気絶頂の男性アイドル。0歳半に赤ちゃんモデルとしてデビューし、成長してからは子役などもやってのけたから、彼の人生のほとんどがイコール芸歴である。現在は21歳。
吉田紳司は、そんな彼が芸能界デビューを果たしたときからずっと咲夜を担当しているマネージャーだ。
もう歳は46歳になっており、咲夜にとっては父親のような存在だった。
……咲夜は8歳のときに、実の父を亡くしている。
それからは吉田が、母の相談を受けて色々な手続きなどを手伝ってくれた。
マネージャーなのに、そこまでするのか。サービスが手厚いな、と子供心に思ったものだ。
「なあ、吉田ぁ」
「なんでしょう?」
「俺、もうライブしたくない。残りのツアー、全部お前がやって」
咲夜の無茶苦茶なワガママに、吉田はフッと笑い声を漏らす。
「私がアイドルデビューですか。面白そうですが、遠慮しておきましょう。神楽坂咲夜のライブを見に来たファンの方々がガッカリしてしまいますよ」
「いいじゃん、おじさんアイドル。吉田ならいいトコイケると思う」
「買いかぶりすぎですよ、咲夜」
咲夜と吉田は軽口をたたき、笑いあった。
「君はアイドルモードのときはキリッとしていてイケメンなんですけどねえ。さっくんのファンが見たら卒倒してしまいそうだ」
「俺、その『さっくん』って呼び方もキライ」
「おやおや」
困りましたねえ、と吉田は笑うが、しかし咲夜の気持ちを否定はしない。
「ですが、全国ツアーはしっかり回ってもらいますよ。君のファンが、大金を支払って競争の末にやっとの思いでチケットを手に掴み、君のパフォーマンスを楽しみにして来てくださるのです。君だって今まで歌やダンスの練習も頑張ってきたでしょう? ファンは大切にしなければいけません」
「ファンねえ……」
――実のところ、咲夜にとってファンなどどうでもいいのだが、それを言うと流石に吉田のお叱りを受けてしまうので、黙っていることにした。
ファンなんて、咲夜からすれば活動していれば勝手にうしろをついてくるものだ。それは他のアイドルにとっては羨ましいことであり恨めしいことである。彼がそれを公言すれば、たちまち袋叩きにされてしまうだろう。だから言わない。
実際、咲夜のアイドル活動はかなり手広く展開されていた。
歌手はもちろん、俳優、声優、さらには本を出したり、自身の香水ブランドを立ち上げたり。
それらはマネージャーの吉田が「君には向いているのではないでしょうか」と勧められて始めたことなのだが、その目論見はすべて成功している。吉田にはそういった先見の明があるのかもしれなかった。
そんな吉田は、一度だけ咲夜のマネージャー担当を下ろされたことがある。
同じアイドル事務所の他のアイドルにつくことになったのだが、それは1ヶ月ももたなかった。
咲夜のワガママに振り回されて、吉田以外のマネージャーには彼を扱いきれなかったのだ。
結局その後、吉田が引き続きマネージャーを担当し、現在に至るのであった。
さて、全国ツアーは沖縄から始まり、最終目的地の北海道まで北上する形になっている。
咲夜と吉田はその日のライブが終わるたびに地元の飲み屋で食事を楽しむのだが、吉田は決して酒を飲まなかった。
「吉田さん、一緒に飲もうよ」
ライブの関係者にそう誘われることもあるが、
「申し訳ございません。咲夜を車で送らなければなりませんので」
と固辞するのがいつものことである。
そうして吉田の運転する車でホテルに戻った咲夜は、真夜中の2時に目を覚ました。
二度寝しようとしても、うまく意識が溶け落ちていかない。
のどが渇いていたのもあり、諦めて顔を洗って、廊下にある自動販売機を探そうと部屋のドアを開ける。
自動販売機を見つけ、小銭入れを漁っていると、不意に誰かが話している声が聞こえた。
「夜分遅くに失礼いたします」
それは吉田の声だった。廊下でスマホを耳に当て、誰かと通話しているらしい。
何の話をしているのだろうと、咲夜は興味本位で立ち聞きをしていた。
「ええ、ええ、……はい、突然のことで申し訳ございません。そうです。私は――」
咲夜は何気なく聞いていると、次の吉田の言葉に目を見張ることになる。
「――私は、事務所を辞めさせていただきたいと思います」
それは、辞職願と言うには、いつもと同じ、あまりにも穏やかな口調だった。
〈続く〉
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