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第9話(最終話)最後の挨拶
――咲夜と吉田、最後の二人三脚を繰り広げた、あの半年が目まぐるしい速さで終わってしまった。
後任のマネージャーは、咲夜の指名で田井中に決まったのである。
引き継ぎは完璧に済まされた。
田井中は分厚いマニュアルに目を白黒させていたが、その実、内容は今まで咲夜と吉田にくっついて学んだことがほとんどで、今さら新しく覚えるようなことはそんなにないはずだ。
その日は咲夜のオフだった。
彼はタクシーに乗り、「空港まで」と運転手に声をかける。
運転手は制帽をあげた拍子にバックミラー越しに咲夜を見て、「おや」と言いたげな顔をした。
「お客さん、テレビでよく見る顔ですね」
「そんなに有名になれましたか、光栄です」
咲夜は優雅に笑って、後部座席に背中を預ける。
タクシーは空港に向かって、軽やかなスピードで走っていった。
――今日は、吉田がイタリアへ旅立つ日である。
空港のロビーで、吉田はステッキ代わりの傘を腕にかけ、スーツケースを転がしていた。
「おーい、吉田!」
咲夜の声に反応して、吉田の身体がゆっくり振り返る。
神楽坂咲夜が、手を振りながら近づいていた。
「咲夜、来てくれたのですね」
「俺が来ること、わかってたくせに。わざわざここで待っててくれたんだろ」
この空港では、セキュリティ上の問題で、手荷物検査を終えたらもう見送りの人間には会えない。
吉田は手荷物検査を控えて、咲夜が来るまで待っていてくれたのだろうと、容易に想像がついた。
「君と、最後に挨拶出来たらいいな、と思っていました。事務所では、他の子たちに挨拶をしていて、君とゆっくり話すことができませんでしたから」
アイドル事務所では、咲夜の仲間のアイドルたちがみんな吉田に縋り付いて号泣していた。
咲夜は正直、ああやって素直に「行かないで」と泣いてすがれば吉田も考え直してくれただろうかと真剣に検討したものである。
結局のところ、吉田はこうしてイタリアに行くので泣くだけ無駄、という結論に至ったのだが。
「俺に出来ることは、もうお前を見送ることしかないからさ」
咲夜の笑顔は、やはり寂しさが滲んでいた。
「俺も、お前と最後の挨拶、したかったんだ」
ふたりは向かい合って、しばらく黙った。
挨拶しなきゃならないのに、何も言葉が出てこない。
前々から挨拶の言葉は考えていたのに。
それをもどかしく思うと同時に、相手も同じことを考えていることに気付いて、ふたりは照れくさそうに笑った。
「咲夜、今までありがとうございました。お世話になりました」
「何言ってんだよ、世話になったのは俺じゃん」
「いいえ」
深々とお辞儀をしてから、上体を起こした吉田は、柔らかく目を細めながらゆるゆると首を横に振った。
「咲夜が、この業界に入る道しるべになってくれたのです。世間では私が名マネージャーのような言い方をされますが、とんでもない。私は、君がいなければ……」
吉田は言葉を切って、親指の腹で目尻を拭う。
「私は、君を息子のように思っていたんです。本当は、ずっと。だから、『父ちゃんになってくれ』と言われた時も、本当は頷いてしまいたかった。君が高校生だったあの日、『父ちゃん』と呼ばれて、本当はとても嬉しかったんです」
咲夜の胸に、小さく暖かな火が灯るようだった。
吉田を困らせていたと思っていた言葉の数々は、本当は彼に届いていたのだ。
「俺も、――俺も、今までお世話になりました」
咲夜は吉田と同じくらい、深々と頭を下げた。
20年近くを共に過ごした、父のように偉大で、友のように近かった人。
「吉田、俺さ、吉田が育てたアイドルとして、トップになる。日本一のアイドルになって、きっともう一度、お前に会いに行く」
「おや、私に? 日本に戻ってくるかどうかはわかりませんよ」
「関係ないよ」
吉田は咲夜の不思議な言葉に首を傾げていたが、やがて、右手を彼に差し出した。
咲夜はその手を静かに握る。
ふたりの握手は、時間が止まったかのように長く感じられた。
「それでは、私はもう行きます」
「うん」
そろそろ空港にいる人々も、神楽坂咲夜の存在に気づいた頃合いだ。
向こうの女の子複数人が「ねえ、あの人、もしかして……」なんてキャッキャと騒ぎ始めている。
咲夜が人に囲まれる前に、吉田はその場を離れることにしたのだ。
吉田の後ろ姿を見送りながら、咲夜は大きく手を振った。
「吉田! 今までありがとう!」
吉田は、振り向かずに手だけをヒラヒラと振って手荷物検査場に歩き去った。
「――よし!」
咲夜は、とある目標を立てた。
吉田に会いに行くための、誰にも打ち明けることのない、秘密の目標。
――……と、その前に、今周りに群がっているファンをなんとかしなければいけない。
「サインは順番にするから、一列に並んでね!」
咲夜がウィンクすると、女の子がキャー、とけたたましい悲鳴をあげた。
――数年後。
「シンジ、少し休憩するか」
師匠に声をかけられたので、吉田は製作中のヴァイオリンから離れて、水を飲みに行った。
イタリアの夏は、日本に比べて湿気が少なく、あの国よりは過ごしやすい。
そこかしこの庭にレモンの木が植えられていて、爽やかな香りが風に乗ってやってくる。
「そういえば、サクヤ・カグラザカってアイドル、知ってるか? 日本で有名らしいな」
「ええ、よく知っていますよ」
懐かしい名前に、顔が自然と綻んでくる。
かなり年配の師匠が咲夜の名を知っていることに、むしろ驚いてしまった。
ああ、彼は本当に、日本一どころか世界的に有名になったのだと、誇らしく思った。
サクヤ・カグラザカはアメリカのビルボードにも名を残している。
歌も踊りも、演技まで一流と評判。
最近は香水ブランドだけでなく、ファッションブランドまで立ち上げて、世界を股に掛ける高級ブランドとのコラボまでしているらしい。
「ところで、なぜ突然咲夜の話を?」
「うん? お前、何も聞いてないのか?」
「なんの話です?」
「……あっ、しまった。これはサプライズだった」
「え?」
思わず手で口を塞いだ師匠に、吉田は怪訝な顔をした。
ふと、にわかに工房の外が騒がしくなった。
「えー、このイタリアではヴァイオリンが有名で、こうしてヴァイオリンを作る工房がたくさんあるんですね」
「ここに会いたい人がいるって本当ですか?」
ベテラン司会者らしき日本人の男女の声が聞こえてくる。
会いたい人、という日本語に、思わず心臓が跳ねた。
「――まさか」
吉田は工房から一目散に飛び出したい気持ちを堪えて、工房の窓からそっと外を見やった。
そこに、会いたかった人がいた。
「――咲夜!」
今度こそ、衝動を抑えきれなかった。
吉田は工房を飛び出し、イタリアにロケに来たアイドル――神楽坂咲夜に駆け寄ったのである。
〈了〉
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