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第2話 動揺の全国ツアー
――神楽坂咲夜の全国ツアーは、始まって2週間が経っていた。
現時点では沖縄を出発し、広島、大阪などを経由して東京、仙台を通り越し、いよいよ北海道入り、というところだ。
しかし、咲夜の心はすでに、全国ツアーどころではない。
「――私は、事務所を辞めさせていただきたいと思います」
あの日、ホテルの廊下で聞いてしまった、マネージャー・吉田の辞職願。
あれを聞いた瞬間、咲夜の全身からサーッと血の気が引いてしまった。
小銭入れを落とさずに済んだのは幸運だったかもしれない。
もし何か物を落として、その音で吉田に立ち聞きしていたのがバレてしまっていたら、もう全国ツアーも何もなかっただろう。
ただひたすらに、咲夜はライブを死にものぐるいでこなしていった。
――観客の悲鳴がやかましい。
――スポットライトは熱くて鬱陶しい。
――咲夜の歌に合わせてゆらゆらと揺れるサイリウムの海が気持ち悪い。
あのサイリウムの光る観客席を見ていると、昔、父が生きていた頃に一緒に見に行った、ホタルイカのうようよいた海を思い出す。
同時に、8歳のときにこの世を去った父を思い出して、胸が痛くなった。
――父ちゃんのように、吉田も自分を置いていくのではないか。
そんな不安に襲われた咲夜は、最後の北海道ライブで心臓がドッドッドッドッとうるさく鼓動しているのを感じていた。
「――咲夜?」
様子がおかしいと思ったのか、吉田が声をかけてくる。
しかし、咲夜にはもはや心臓の鼓動でそれも聞こえない。
ハッ、ハッ、と、息が浅く荒くなっていく。
「咲夜!」
強く肩を叩かれ、ハッと弾かれたように顔を上げる。
吉田の顔が、そこにあった。
「大丈夫ですか、咲夜」
「あ、ああ、……大丈夫」
「とてもそうは見えませんが」
吉田は優しく肩を抱いて、咲夜の胸に手を当てる。
「大きく深呼吸してください。鼻から息を吸って、口から吐いて。……もう一度」
彼はとにかく咲夜を落ち着かせようと、安心させるように肩や背中を撫でる。
咲夜も少しずつ、冷静さを取り戻しつつあった。
「ありがとう、吉田。……俺は、もう大丈夫だから」
「そうですか」
吉田に色々物申したいことはある。
ただ、この最後のライブを仕上げてからの方が良い。
「吉田、このツアーが終わったら、話したいことがある」
「おや、奇遇ですね。私もですよ」
咲夜と吉田は、お互い軽く拳を合わせた。
彼らにとっての、「健闘を祈る」という合図だ。
「――みんな、おまたせ~!」
咲夜は声を張り上げて、全国ツアー最後のステージへ飛び出した。
〈続く〉
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