第4話 吉田が事務所を辞めるわけ

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第4話 吉田が事務所を辞めるわけ

「実は、事務所を辞めるのは、きちんとした理由があるのです」  居住まいを正した吉田が、事情を語って聞かせる。 「私は、イタリアへ行こうと思っています」 「い、イタリア……?」  予想外の話題に、咲夜は困惑した。  アイドルのマネージャーとイタリアという国が、どうしても頭の中で結びつかないのだ。  混乱した様子の咲夜を見て、吉田はクスッと笑う。 「わけがわからない、という顔をしていますね」 「実際そうだからな。もしかして、からかってるとかじゃないよな?」 「まさか。至って真面目です」  それから吉田は、詳細を語り出す。 「私は学生時代、ヴァイオリン職人になりたいと思っていました。それで、イタリアに留学して職人に弟子入りしていたのです」  咲夜は、吉田ならヴァイオリンがよく似合うだろうなと思った。  どんなに暑い日でもスーツの中にベストまで着込み、常にステッキ代わりに傘を持ち歩いている。  その傘は急な雨でも咲夜を濡らさないためなのだが、そんな立ち姿がヨーロッパの紳士のようで、アイドル事務所のみんなの憧れなのだ。  事務所のマネージャーに聞けば、全員が全員「マネージャーとしての理想形」と答えるほどである。  同じ事務所の他のアイドルにも「吉田さんを独り占めしててズルい」と苦情が来るくらいだ。  咲夜が考えている間にも、吉田の話は続く。 「ヴァイオリン職人としての修行はとても厳しく、しかし楽しく、とてもやり甲斐のあるものでした。ただ……」  吉田が弟子として働き始めて2年目のことである。  彼の母親が急な事故にあい、半身不随になったという知らせがイタリアに届いたのだ。 「私は修行を中断して急いで日本に帰りました。それからは日本で母の介護を」  父は既にこの世を去っており、吉田が単身で母の面倒を見なければならなかった。  ひとまず昼間は介護ヘルパーに任せて、とにかく職を探さなければならない。  幸いなことに、ヴァイオリン職人としての腕を買われて、楽器店で楽器の修理やメンテナンスを任されることになった。 「しかし、なかなかイタリアには戻れず、そうこうしているうちにイタリアの師匠も病気にかかって、『もしイタリアに戻ってくるなら別の職人を紹介する』……と」  そのとき、吉田はギュッと目を固くつぶった。  思い出すだけでもつらいのだろう。  しかし、吉田には幸運がついてまわった。  楽器店で働いていた時に、ヴァイオリンの修理依頼に来た今のアイドル事務所の社長に出会ったのだ。 「社長に『マネージャーに興味はないか』と聞かれましてね。正直、経験がないので、なぜマネージャーなのだろう、と首を傾げたものでしたが」  結果として、社長の人を見る目は正しかった。  吉田が楽器を修理する時のスケジュール管理能力と彼自身の気遣いのある性格が発揮され、アイドルたちのサポートが万全だったのだ。 「そうして、私は君に出会ったのですよ、咲夜」  咲夜を見る吉田の表情は優しく穏やかだった。  まだ0歳半の赤ちゃんモデルだった咲夜を、吉田は手塩にかけて育て上げた。  咲夜の母の相談にもよく乗り、一緒に芸能人としてのライフプランを練っていった。  8歳で父を亡くし、茫然自失の咲夜と母を励まし、死亡届や葬儀の手続きなどを代わりに行った。  吉田は、咲夜にとって家族も同然だったのだ。  ――そうして、今に至る。 「こうして話すと、懐かしいものですね」  吉田はしみじみとしていた。 「吉田の過去話はわかった。で、なんでイタリアに行くわけ?」 「ああ、肝心なことを忘れていました」  吉田はうっかりしていた、と恥ずかしそうに笑っていたのである。 「イタリアの師匠から、最近連絡が来たのです。病気が良くなったから、また修行をつけられると」  吉田は半身不随になった母を、1か月前に見送った。  だから、もう彼を日本に縛り付けるものはないのだ。 「師匠がまたいつ倒れるかわかりません。だから、私はすぐに行かなければいけない」  吉田の真剣な表情に、咲夜は悟った。  ――ああ、俺にはこの人を引き止めることはできないんだ。  否、引き止めてはいけないと思った。  純粋に、無我夢中に、夢を追いかける人間の邪魔をするなんて、夢を売るアイドルのすることじゃない。 「お前のしたいことはわかったよ、吉田」  穏やかな咲夜の口調と表情に、吉田はホッと息をつく。 「よかった。君なら私を力ずくでも止めるかと思いました」 「お前、俺をなんだと思ってんの」 「君は昔から自分の思い通りにいかないことがあると癇癪を起こしますからね」  咲夜はふくれっ面をして押し黙った。  自分がワガママと言われている自覚もあるし、図星を指されたといったところである。  そんな咲夜を見て、吉田はフフと笑う。 「イタリア、いつ行くの?」 「事務所を辞めるのが半年後の予定です。引き継ぎなんかもあって、すぐに辞めるというわけには行きませんからね」 「じゃあ、俺たちは半年間、最後の仕事をすることになるのか」  最後、という言葉に、吉田はピクリと動いた。 「――咲夜。君は、アイドルを辞めないでくださいね」 「え、辞める気はないけど。俺、芸能界以外に居場所も出来ることもないもん」  ふと、咲夜は意地悪な笑みを浮かべる。 「つか、お前はマネージャー辞めるくせに、俺にはアイドル続けろとか、それこそワガママじゃん」 「返す言葉もありません」  吉田は肩を竦めた。  咲夜はひとしきりケラケラ笑ったあと、吉田と飲みながら思い出話に花を咲かせた。  ――それは、咲夜と吉田の、過去の話だ。 〈続く〉
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