見えない助け

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「せっかく俺が家まで来てやっているのに、文句があるわけ?」      午後八時。  雄太が食卓テーブルを平手で叩いた。私が用意していたカルボナーラとサラダの皿が揺れ、耳障りな音をたてる。 「連絡くらいくれたって‥…私、ずっと待っていたんだよ」 「知らねえよ! それより俺のビールは。本当、気が利かない女だな」    ──なんで私はこんな奴と付き合っているんだろう。半年前に交際を迫られ、断れなかった自分の優柔不断さと弱さが情けない。今では雄太には他にも恋人がいて、私への気持ちも冷めていることは分かっていた。 「だいたいさ、気づいている? 最近、お前は会うたびになんか反論してくるの。何が不満なわけ」  だんだんと熱を帯びて、大きくなる雄太の声。苛立ちが伝わってくる。  椅子から立ち上がり、私に向かってきた。そして、右手を振りかぶる。殴られる──咄嗟に顔をかばおうとした時、壁から大きな音がした。  ドンッ!  雄太は手を止め、じっと壁を見つめる。 「隣に人いたっけ? 空き部屋じゃなかったか」 「……先週末に誰か引越してきたよ」 「そういう大事な事は早く言えよ」  ムカつくわ、と雄太は舌打ちをして立ち上がった。床を踏み鳴らしてリビングをでて、玄関先に向かう。私はあわてて彼の背中を追いかける。だが、部屋を出た時には、彼は隣室のチャイムを鳴らしていた。  いいから食事に戻ろう、という私の説得に耳を貸さず、雄太が何度かチャイムを押す。すると、ロックを解除する音もなしに扉が開いた。  雄太の肩越しから、男の姿が見える。細身で青白い顔をした二十代くらい。黒い前髪が長く、そこからのぞく眼光が鋭い。全身、黒のコーディネートだ。 「おい、なんだよ。穴があきそうなくらいに壁叩きやがって! 喧嘩売ってんのか」  しかし怒気をはらんだ雄太の文句にも、相手はまるで動じていない。じっと雄太の目を見つめている。  男は口を開く。透き通るような声だった。 「俺の名前はカンバラ。あんたは?」  唐突な名乗りに、雄太は虚を突かれた様子だ。 「だ、だれもお前の名前なんて聞いてねえよ……二度と壁を叩かないでくれ」  何か付けくわえようと唇を動かすが、言葉は出てこない。「もういい。部屋に戻るぞ」と私に声をかけ、踵を返した。    私は隣人に「うるさくしてごめんなさい」と頭を下げて戻ろうとする。顔を上げると、カンバラの目が射貫くように私をみていた。  深く黒い瞳。まるで底の見えない闇のような。  ぞっとして、後ずさりする。急いで自分の部屋の前まで戻りノブに手をかけると、雄太が荷物をもって飛びだしてきた。  すれ違いざま「帰るわ」と一言つぶやく。その声は震えていた。私は部屋にはいり、すぐに扉の鍵をかける。    久し振りに会った恋人は、せっかく作った料理に手も付けずに去っていった。  私はどっと疲れて椅子にもたれかかる。グラスに入った水を一飲みして、カルボナーラにフォークを入れ、口に運ぶ。  出来上がった時は湯気を立てていた料理は、悲しいほど冷えていた。
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