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詠う娘
人は、存在しない物怪を、自らの心に飼うもの。以前より周囲に疑われていることには、気づいていた。
「ありがたきことです」
「美しい歌ですね」
「ぜひとも」
その言葉の裏には、常に嫉妬と疑いがある。
本当に、この娘が歌を詠んだのか?母親が歌を詠んだものを、自分で詠んだものと偽っているのではないか……無理もない、母は和泉式部と称される歌の達人で、遊び女とも揶揄されるほど派手な交際を結び、時の権力者に仕えた。その和泉式部の娘── 小式部内侍と称される──もまた、母と同じく時の権力者である一条天皇中宮、彰子に仕えたために母と比較されてしまうことになったのだ。
母のことは、父との仲が冷めきっても、小式部内侍や弟妹を育てあげてくれたので、尊敬している。世間では、複数の男達と交際を持っていた母を悪し様に言う向きもあるが、小式部内侍は気にしていなかった。評判がどうであろうが、自分にとってはよき母でしかないのだ。
女を悪くするのも良くするのも、殿方しだい。女の浮気心など、殿方の浮気心に比べればものの数にも入らないであろう。
だからであろうか。
「小式部内侍様におかれては、さぞかし寂しくお思いでしょうな」
御簾の外側にいる男、四条中納言の軽薄な発言は気に入らない。
「どのような意味でしょう」
「おや、どのような、とは。
もうお分かりでは?此度ある歌合、その代作のことですよ、もう母上に使者はお出しになりましたか」
やはり。
うわさ好き、詮索ありきの殿上人らしく母の留守を見計らい、代作させているかをわざわざ確かめに来たのだろう、小式部内侍は顔をひそめた。他人に歌の代作を頼むことは恥ではない、自分が有名な歌人の娘でなければ。
いずれ誰かが真偽を確かめに来るだろうことは予想していたが、よりによって四条中納言。顔の造りは悪くないのに、中身がよろしくない。この男と付き合う女には知り合いもいるけど、いったいどこがよいのやら。
うわさを信じて、疑うこともせずからかうような男なんてこちらから願い下げだ。小式部内侍は扇を開くと筆をとり書きつけた。
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立
御簾の内側から差し出した扇を見た四条中納言の顔色が変わる。
「こ、これは」
自分の愚かさにやっと気づいたのか。
小式部内侍が詠んだ歌は大江山を越えた先の生野に行ったことがないので母のいる丹後にある天の橋立の地を踏んだことすらありません、という意味だ。
母は今、再婚相手の任地である丹後にいる。
丹後には天の橋立と呼ばれる砂州があり古事記にも記されている名所だった。もしかすると母から届く文にはもっとくわしいことが書かれているかもしれないが、小式部内侍はまだ文を見てもいない。当然、代作のうわさは根も葉もない嘘だ。
母に頼りきり、歌も詠めないと思っていた娘に先に詠まれることは想像していなかったのだろう四条中納言は、動揺した表情を浮かべ、あわてて立ち上がり言い訳をした。
「その、実は先約がありましたので、これにて」
もごもご言ったかと思えば、乱れた裾も直さず去っていく。小式部内侍の勝利だった。
「ふふ」
御簾の内側で笑んでしまう。歌を詠われれば返歌として返すのが歌人としての礼儀というもの、歌も返さず無様に逃げ帰っていく姿を見るのは実に気持ちがいい。あのいけ好かない男をやり込めてやった。
小式部内侍の中には行ったこともないはずの、丹後の海を吹き渡る涼しい風が吹いてる。世間がどう言おうとも関係ない、自分は立派な歌人なのだ、誰に遠慮する必要もない。
この一件以来、小式部内侍の歌人としての名声は急激に高まっていくこととなり、二十歳で急逝するまで多くの公達と恋をすることとなる。恋多き女は、自由に生きていくのだった。
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