歌う

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「どうだ、アイツ。もう歌ったか?」 「いや、だめです。まだ歌いません」  よれよれの白シャツを引き立てていたピンク色のネクタイを無造作に緩めながら、疲れ気味の巡査長は部屋に入ってくると、皇居の緑が映える大きな窓を背に座る年配の捜査課長に告げる。 「いつも肝心なところで逃げられていたアイツをやっと捕まえて、これで事件の山を越えた、と思ったんですけどね……」 「──たしかアレだな。捜査員を総動員して袋小路に追い込んだはずが、なぜか影も形も消えちまう、確かそんなヤツだったかな」  捜査課長は立ち上がると、部屋のコーナーにある休憩用応接セットのソファーに倒れこんでいる若い巡査長の肩を、尋問の苦労をねぎらうために、ポンポンと軽くたたく。 「やはりここは、ベテランの『歌わせ』屋であるおやっさんを呼ぶしかないですよ、課長」 「そうだなあ、事件も膠着状態だしな。この時期に新しい証言を取れれば、何かしらの進展もあるだろうし」  捜査課長は、自分の席にある受話器を取り上げると慣れた手つきで電話番号を押す。 「もう定年直前であまり無理はさせられないが、ここはいっちょ出張ってもらうか、歌わせ屋のおやっさんに」  * * * 「どうだい、そろそろ。知ってること洗いざらい喋って、心のかせをおろしてみちゃ」  大きなハーフミラーが壁の一面を占有する第三取調室の無機質な机の上には、先ほど届いてまだ湯気が出ているかつ丼。そう、桜田門お抱えの、これを食べれば誰でも懐かしさから涙する、あの伝説の出前のかつ丼が。  スポーツ刈りの髪の毛が真っ白でも、長年の捜査で日焼けした黒い肌が明瞭なコントラストを生む精悍な顔つき。そんな顔に不釣り合いな親しそうな笑顔を見せて、かつ丼と割りばしを机の向こう側にいる相手に差し出して声をかける。  その微妙な声とかつ丼を出すタイミングで、何十人もの犯人から自白を引き出してきた、歌わせてきた、警視庁きっての伝説の歌わせ屋。山田次郎。 「おまえさんも、色々としがらみもあるだろう。でもな、うまいかつ丼食って、腹を満たして、小さな幸せを味わって、ついでに肩の荷も降ろそうぜ」  うまそうにかつ丼を食べる相手に、さとすように声掛けすると、ほとんどの相手は涙をながして歌う。  しかし、今回の相手は違っていた。 「おー! このかつ丼うまいデース。天界でも食べたことありまセーン」  嬉しそうにかつ丼をほおばる。  そうして満足そうに食べ終わると、カタコトの言葉で話し出す。 「ワタシ、あなた方が言ってる犯罪者と違いマース。あなた方が追いかけるから、逃げていただけデース。デモ、おいしいかつ丼をごちそうしてもらったので、ソノお礼にワタシの神通力で、犯人見つけておきマシタ」  山田次郎がその言葉に混乱していると、取調室のトビラが勢いよく開かれて、若い巡査長が飛び込んでくる。 「おやっさん、犯人が突然第二取調室に現れて、今捜査本部大騒ぎになってます! どうも、そのかつ丼ごちそうした人、無関係な一般人らしいっす」  かつ丼の前に座っていた白髪・白髭の老人は、ふぉっふぉっと笑いながら霧のように取調室から消えていった。  呆然とした山田次郎と巡査長を残して。 (了)
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