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長屋の井戸
これは、リカが七歳の時の出来事です。
リカの家は、車一台が通れる四つ辻の角に有る木造三階建ての一軒家で、大学生を対象にした下宿屋と駄菓子屋を営んでいました。
リカの家の西隣には、昭和初期に建てられた三軒長屋が、三棟連なってありました。
リカは小学校から帰ると、隣の一棟目の長屋に住む、マキちゃんとよく遊びました。
マキちゃんは、歩行に介助が必要なお祖母ちゃんと二人暮らしのため、遊び場はいつも彼女の家の玄関先でした。
マキちゃんのお祖母ちゃん……リカはマキバアと呼んでいます……は玄関の引き戸を解放して、三畳ほどの土間の上り框(かまち)に座っていました。土間には台所があり、その横には生活用水を汲む釣瓶(つるべ)井戸がありました。
長屋は軒先が長く、南を向いているにも関わらず、晴天の日も玄関の中は真っ暗です。その奥に黙って座るマキバアは、白い寝間着姿も相(あい)まって、まるで幽霊のようでした。
遊んでいる最中、リカは自宅のお店から持ち出して来た黒砂糖の駄菓子を、マキちゃんにあげました。そして、マキバアにもあげようと思い、玄関の敷居を跨ごうとした時です。
「そこ、入らんの」
マキバアの鋭い声で立ち止まりました。
「今、井戸の蓋を表に干しとる。子供がかやり(転げ)でもしたら井戸に落ちるけえ」
すると、マキちゃんが玄関横に干してあった蓋を井戸に被せて、リカから黒砂糖の駄菓子を受け取り、マキバアに持って行きました。
「リカちゃん、ありがとうねぇ」
マキバアはさっきまでの鋭い声と変わり、拝むように優しい声でお礼を言いました。
夕暮れに差し掛かった頃です。
「夕餉の支度するけえ、早う去にんさい」
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