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うるましん
昼。駅に着いた音が微かに聞こえる中で、俺は肩を叩かれた。
「お兄さん! 終点ですよ!」
深い居眠りをしていた俺はびくりと焦り、よだれを吸い上げて立ち上がった。だが、周囲の乗客は降りる様子もない。
慌てて表示を見ると、終点でもなければ、まだ俺の降車駅でもなかった。
隣の人が、悠々と座ったまま俺を見上げている。こいつが俺を起こしたんか?
スカートから出た両膝に、黒いギターケースを挟んでいる。指輪をいくつも嵌めた手を口元に当ててくすくすと笑い、そいつは俺に「嘘ですよ」と言った。
ん?
ピンコン、ピンコンとドアが閉まる。
俺は寝ぼけ頭に突如くらった初対面の人からの悪戯に、咄嗟の対応が出来ず突っ立ってしまった。そいつが、まるで友人が部屋に来た時のように「まぁ座って座って」と笑うので、俺は色々迷った挙句、もう一度浅く座った。するとそいつは口を開いた。
「お兄さんが爆睡して私の方にぐんぐん傾いてくるんで、ちょっとイラっとして。どうやって起こそっかなぁと思って。肘で押し返すとか『やめてください』って起こすとかは、何ていうかこう、面白みに欠けるじゃないですか」
ほう? 俺のお笑いアンテナがこの出会いを逃すなと反応する。
「そらすんませんでした。けど起こすんに一捻り加えたいいう発想、なかなかいいすね。芸人相手にね?」
知名度底辺の俺のことを知ってるとは思えんが、反応を窺う。俺が芸人とわかって絡んでくる一般人もごく稀にいるにはいる。
そいつはすっと背筋を伸ばして食いついた。
「え、お兄さん芸人さんなん?」
目を輝かせる。案の定、偶然らしい。
「せやで」
「え、うそ。何て人?」
「月光電設の友清いいます」
「ごめん全然知らんわ」
「おお、涙拭うの手伝うてくれや」
そいつは声を抑えてけらけらと笑った。
「そや友清さん、めっちゃちょうどええわ!」
ぱちんと手を叩いて、そいつは自分のスマホを高速で操作し始めたかと思うと、画面をぐっと俺に向けてきた。
「今日、このライブ来て下さいよ!」
俺は向けられた画面を見た。バンドのライブ告知フライヤーで、恐らくこの写真の中のギターボーカルがこいつだ。スタート時刻は19時、チケット料金は『当日2500円』となっていた。
「いや何がちょうどええねん」
「今日のライブ、久々のワンマンなんですよ。頑張って満席の予定やったんですけど、キャンセル出てしもてどうしようかなぁと思ってたところに、なんとあの月光電設の友清さんが隣に」
「自分、取り入るの光の速さやね」
そいつは体を揺らして静かに笑い転げる。
「最後ステージに上がって寄席の告知とかしてもらっていいんで! フライヤーとかあれば置きますし!」
そいつは両手をぱんっと顔の前で合わせて、上目遣いで瞬き光線を送って来た。まぁ、どんなルートであれ客席を埋めたい気持ちはわかる。どうせ予定はないので、何かおもしろい出来事が起こることに賭けてもいいかもしれないと思った。
「まぁ、ええよ」
「ほんまですか! 来てくれるんですか?」
「ええよ」
「嬉しい! チケ代は前売り2000円でいいです! 取り置きしときます! 受付でお名前言ってください」
「おー、おおきに。わかった」
そいつは、バンド名+そいつの名前になっているSNSアカウントを俺に案内して、ライブハウスの場所を伝えると、俺に小さく手を振って電車を降りて行った。まだ昼だがこれからリハや音響の準備などがあるという。
ピンコン、ピンコンとドアが閉まる。
俺はもう一度、教えられたSNSの画面を眺めた。
『CHERRY POCKET うるましん』。『うるましん』?
俺を乗せた電車が、カタンカタンと、動き出した。
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