夢みたいに抱きしめて

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夢みたいに抱きしめて

 大学四年の頃に別れた元彼の夢を見た。抱きしめられる夢だった。  四月、朝の五時。まどろみの中で、あいつの腕の中で嬉しくなってしまったことを自覚する。寝起き早々、嫌な気持ちになった。  ベッドから這い出てスーツに着替える。ネクタイを散々結び慣れたセミ・ウィンザーノットで結ぶ。就活から数年経って、より形の整った結び目。それを、あいつが見ることはない。  前日買った二十円引きのおにぎりを胃に詰め込む。スーツを着て、髪の毛を整髪剤できっちりと撫でつけた。  おろしていた前髪を上げて額を出せば、少しは幼さが薄れる、気がする。耳元の十八金ピアスを外して透明なものに変えれば、社会人の俺の出来上がり。 「アホらし……」  身だしなみを整えて、家を出るためにビジネスリュックを背負う。前日に全て荷物を入れたそれは、しかし通学用リュックよりはるかに軽い。  あいつによく、荷物を全部入れたリュックをからかわれていた。教科書もノートも筆記用具も、パソコンも、タブレット端末も、いつも持ち歩いていた。  背中の軽さがいまだに心許ない。何年か履いている革靴の踵を、意味もなく上下させる。ため息がもれた。  もう何年も経つのに、あの低い声の軽やかさが懐かしくなる。  またこうして歩いていれば、後ろから声をかけてくれないか、なんて。  就活中のよくある言い争いだ。優秀なあいつは早く内定をもらって、当時将来が決まっていなかった俺がそれをひがんだ。  喧嘩別れをして、その後に就職先が決まった。結局お互いに進路を知らないまま、大学を卒業した。  それから、何年も経ってしまった。気持ちはちゅうぶらりんのままどこにも行けなくて、結局新しい恋もできていない。  職場へ向かう満員電車に乗り込んで、ビルに着けばエレベーターに乗り込む。オフィスに着いたらタイムカードを切る。始業十分前に席に着く。  俺が悪かったんだよ、とこの季節になるたび思い出す。嘘だ、数ヶ月に一度は思い出す。  好きだったし甘えていたし心を預けていた。だからひがんだし、怒ったし、それを突っぱねられて激昂した。何度思い出しても恥ずかしい。  謝ろう、と連絡先の画面を開いたこともある。だけど返事が来なかったらと思うと、怖いのだ。  そしてこの通り、働き出して数年経っても、俺は一歩も進めていない。  未練がましくあいつからもらったピアスを毎晩つけて、こうしてピアス穴を維持している。  手帳をめくり、今日の予定を確認する。一番目の予定は、新規の取引先との打ち合わせ。朝十時に先方が来るから、と頭の中で予定を組み立て、準備する。 「ふん……」  鼻で笑ってみる。自分を嘲笑ってみたところで、何も変わらない。  資料を用意して、読み直して。そうしているうちに、約束の時間になった。 「三木くん、準備大丈夫?」 「はい、いけます」  上司に声をかけられ、立ち上がる。名刺入れを懐に入れる手つきも慣れたものだ。  会社のエントランスに先方がついた連絡が入り、会議室へ向かう。先に部屋にご案内して、と上司が指示しているのを後目に時計を見た。約束の十分前。  エレベーターを降りてすぐ、右の扉。会議室をノックする。失礼します、と声をかけて入室する。その一瞬、俺は息ができなかった。  あいつが、いた。シルエットの整った三揃のスーツを着て、髪の毛の色は少し明るくなって、襟足は刈り上げられて。  おとなしかった印象が、随分華やかになっていた。大人の男だった。  呆然と立つ俺の横で上司がお辞儀をする。慌ててそれに従うと、先方の代表者が立ち上がる。  上司同士が名刺を交換している横で、俺は呆然と彼を見つめた。彼は優しく微笑んで、「ひさしぶり」と口の形だけで、言った気がした。  その後は、本当に散々だった。ほとんど上司に任せきりの俺に先方は呆れた様子だったし、上司からも叱責された。  散々な一日だ。あいつのせいだ、と責任転嫁したくなる。俺の頭には、あいつの少し明るい髪色が焼きついている。刈り上げたうなじの日に焼けた感じもショッキングだった。  だけど今日は純粋に、俺のミスだ。あの場で仕事ができていなかったのは、俺だけだ。あいつは、ちゃんと平然としていた。  情けなくて、帰りの電車でずっとうなだれていた。家に着いたちょうどそのとき、俺のプライベートのメールに一通のメッセージが届く。  差出人はあいつだった。  震える指で開けば、「今更だけど」とだけ書かれていた。  うん、と相槌を送る。それからたっぷり待っても、返信は来なかった。彼は大切なことや大事なことを言うとき、こうしてたっぷり考え込む。  なんでも口に出す俺とは正反対で、そんなところも好きだった。好きだったのに。  どうせまだかかるだろう、とスマホを置いてシャワーを浴びる。戻ってくると、メッセージが削除された痕跡だけがあった。 「ふざけるなよ!」  躊躇わずに通話画面を開き、電話をかける。たっぷり五コール待って、彼はやっと通話に出た。 「取り消すな」  俺が開口一番にそう言えば、彼が電話口で戸惑う気配がした。  構わず素直な気持ちのまま、言葉をぶちまける。 「俺に何か言いたいんだろ。言ってくれよ」 『うん、……』 「そんなことされたら、余計気になる。俺に怒ってるのか?」  彼は息を呑む。それからしばらく経って、大きく息を吸い込んだ。 『怒っていないと、言えば、嘘だ』  彼の落ち着いた声が、しんと耳に響く。ああ、お前が好きだと告白されたときと、同じ声だ。 『だけど怒ってるだけなら、こんなこと、しない』  その震えた声に、俺は鼻を啜った。うん、と頷くと、彼は会いたい、と続ける。 『会いたい。お前は?』 「……うん」  また頷く。うん、うん、と何度も頷く。 「あいたい」  声を絞り出すと、彼は『泣き虫』と笑った。 『ピアス、まだしてるんだって思った』  彼のその低い声が優しい。俺のこと、まだ好きなんだろ。会って、抱きしめてほしい。夢の中みたいに。  泣きたくなる、と言えば、『かわいいね』と彼は湿った声で言った。俺も、お前のそういうところが好きだ。
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