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「あのパトカーが止まってる場所って廃ビルの側だな……」  人山の向こう側に見える古びたビルに目を向けたまま、神宮が呟いた。 「じゃそこで誰かが……」 「行ってみるか」 「えっ! 本気?」  不慮に言われて神宮の顔を見上げると、表情は真剣そのものだった。 「こんな時に冗談なんて言う訳ないだろ。ほら、野次馬しに行くぞ」 「で、でもさっき聞いてたろ? さ、殺人かもしれないんだぞ」  反対したものの、正直那生も気にはなってはいた。だから神宮が強引に手を引っ張っても、それに逆らわず二人で人山の最後尾についた。  無音で回転灯だけが周りを赤く染め上げ、廃ビルや他の建物を血染めのように照らしている。  おどろおどろしい雰囲気に相反し、好奇心旺盛な群衆がひしめく中に紛れて現場を垣間見ようとした。  那生が背伸びをして、人と人の間から覗こうとした時、警察官が規制線を引き始め、群がる物見客達を追い払うように押しやって来る。 「何か見えるか? 神宮」  那生より背が高い神宮が、薄暗い闇へと目を凝らしていたが、「よく見えないな」と、烏合の衆が作りだす雑多な空気を見据えている。  規制線の中で何が起こっているのか体を左右に動かし、那生が様子を見ようとした時、背中越しに数人分の足音が聞こえ、那生と神宮の間を押し除けながら規制線の中へと入って行った。そのうちの誰かの肩が那生にぶつかると、あまりの荒々しさに那生の体がその場から弾き飛ばされてしまった。 「いたっ! な、何?」  よろめく那生の体を咄嗟に支え、神宮が去って行くスーツ姿の男達に、「警察が市民に暴力を振るって無視か」と、断罪するような口調をぶつけた。 「す、すいません。大丈夫ですか」  神宮の声に反応したスーツの塊の中から、最後尾にいたガタイのいい人間が離脱してくると、慌てた顔で那生達の元へ引き返してきた。  男は額に薄ら汗を光らせ、眉を八の字にさせながらこちらを見下ろしている。身長は神宮と同じくらいではあったが、体の厚みが半端ない。まるで積み上がったブロック塀を彷彿させる迫力のある大男が、二人に向かって謙虚に頭を深々と下げてくる。 「本当すいません、我々急いでいたものですから」  恐縮しながら何度も頭を下げてくる大男は「本当にすいませんでした」と、平身低頭で詫びると早々に現場へと去っていった。 「あれ、刑事か?」 「随分と大きな人だったな」  那生は神宮と顔を見合わせると、肩を竦めた。 「やっぱり刑事だ。ほら腕に腕章してる」  神宮が示す方向を見ると、大きな刑事は警察の中でも下っ端なのか、偉そうに振る舞う年長者達に手袋を渡したりと、甲斐甲斐しく動いている。  つい彼の動向を目で追っていると、救急隊がストレッチャーを担ぎ、奥へと入って行くのが見えた。  他の野次馬から、「誰か怪我してんのか」「事故、事件?」「ビルから落ちたんじゃね?」などと、好き勝手な憶測が聞こえてくる。  彼らの声に一瞬、耳を傾けたものの、那生は視線を現場の方へ戻すと、空のストレッチャーが運ばれていくのを見ていた。 「あれ、救急隊じゃない。なんで警察の人間がストレッチャーを運んでるんだ」 「あ……それは、救急隊が現場に呼ばれたとしても明らかに死亡してたら、救急隊は搬送しないんだよ。現場で検死が行なわれて、その後警察車両で搬送される。今みたいにね。だからきっと、あそこにいる人は、もう——」  話しながら、目玉が溢れるんじゃないかと思うほど、那生は驚愕してしまった。 「た、環。あ、あれっ!」  慌てて神宮の腕の腕を掴むと、そんな那生に異変を感じた神宮が、今まさに、ストレッチャーの上へ人間を乗せようとしている場面を凝視ししていた。    ブルーシートを被せられ、動く意思を失くした人間が、両手両足を掴まれてストレッチャーに乗せられようとしている。さっきまでそこにあったかのように下からは、人型に似た、どす黒い血の塊りが地面に染み込んでいた。 「た、環。あ、あれ——あの、あの服。そ、それにあのつ、爪も……。も、もしかして——」 「ああ、あの赤いワンピース……それに同じ色の爪は……」  ストレッチャーに乗った肢体は赤いワンピースを纏い、垂れ下がった裾が風でふわりと揺れている。  那生と神宮が食い入るように見ていると、体に沿うよう置かれていた腕が振動で揺れ、重い荷物のようにぶらりと垂れ下がっていた。爪の先が赤く塗られているのが、鮮明にわかる。  毒々しい出で立ちに変貌した様を見て、那生は全身を粟だたせてしまった。  同じ光景を見ていたのか、野次馬から悲鳴のようなものが聞こえ、制服警官が遅れて新しいブルーシートを持ってくると、ストレッチャーを隠すように囲っている。  運ばれて行く体からは、まだ温もりが想像できそうな血が、シートの下からしとどに滴り落ち、アスファルトに模様を作っている。  僅かな隙間から見えた鮮やかな赤い色の布が、昼間目にした女性の嬉しそうな笑顔と重なって那生の脳裏に蘇った。 「君達! あの被害者を知ってるのか!」    突然後ろから声をかけられ、那生と神宮が振り返ると、さっきぶつかって謝ってくれた大きな体の刑事がこっちを見据えている。  二人が呆然としていると、いきなり大柄な刑事に、那生は肩を掴まれた。 「な、何んですか——」  驚きと、想像以上の力に、那生の体は二、三歩後ろへと後退してしまった。 「おいっ、何をしている」  一驚している那生と刑事の間に割って入った神宮が、那生の肩らから刑事の腕を剥ぎ取り、一回り図体のデカい相手を睨みつけている。 「神宮、俺は平気だから」  諭すように言うと、神宮が握っていた自身のこぶしの力を緩めた。 「す、すいません突然。私、板橋警察署の南條(なんじょう)と申します。あの、不躾ですがお二人にお伺いしたいのです! あ、あのさっきの——」  必死さが顔に滲み出ている南條(なんじょう)が、警察手帳を遠慮がちに見せてきた。 「さっき運ばれた被害者の様子を見て、あの、あなた達何かおっしゃてませんでしたか?」  猪突猛進を全身で表すような南條に詰め寄られ、那生は眉根を歪ませた。 「そ、その前に、刑事さん。さっきの運ばれた人って殺されたんですか」 「え。あ、う、は……い、あっ! いや、しまった……」  捜査内容を漏らし、しまったと言う顔になったが時すでに遅く、慌てて口を手で覆う南條の姿が、ドラマや映画でみる刑事のイメージからかけ離れ、つい、笑いそうになってしまった。 「へえ、殺人ですか」  したり顔で呟く神宮と那生を交互に見てくる南條が開き直ったのか、 「お、教えてください、あの被害者は君達の知り合いですか」 と、縋り付くような視線を向けられた。  お世辞にも切れ者の刑事とは言えない、どこか拍子抜けする雰囲気に親近感が湧き、那生は神宮に目配せした。 「別に知り合いじゃないですよ。ただ今日の昼間に偶然見かけた人に似てるなって」 「偶然……ですか。でもなぜ……」 「何で覚えてたかって? うーん、どっから説明すればいいか……」  返答に困っている神宮と目が合い、那生も同様に困惑した。  周の想い人らしき人間と被害者が一緒にいたから覚えてました——と言っても、何処の誰だとか、きっと尋ねられる。周のことも一から説明しなければならないし、四聖病院のことや、奈良崎の娘の事も……。 「あの、長くなってもいいので是非聞かせてもらえませんか」   二人の気持ちを察したのか南條が手帳を取り出し、目を燦々と輝かせて待っている。その姿が主人を待つ忠犬に見え、那生と神宮は同時に肩で息を吐いた。 「神宮、話してみよう。冷静になってみれば、チラッと見ただけで、本当に昼間の人か分かんないし」  那生に促されると、神宮が南條を手招きし、他の刑事達から少し離れた場所へと三人で移動した。
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