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 スーツ姿のサラリーマン達が酩酊する姿をやり過ごすと、店先を煌々と照らす提灯が見えた。  暖簾をくぐり、引き戸に手をかけたところで那生は中へ入るのを躊躇した。  心を滅入らせる理由はただ一つ、今日のこの会に神宮も出席すると聞いていたからだ。  高校を卒業した後、それぞれの進路に向かえば物理的に距離はできる。昔のように頻繁に会うこともない。  会わなければそのうち他の誰かを好きなり、親友として堂々と向き合える日が来るかもしれない。だけど自分は心底バカだと思った。誰かに誘われても、想いを寄せられても、どうしても神宮のことが忘れられない。こうして何年も意識して引きずっている。  ——あいつが来ないなら同窓会なんて皆勤賞もんだってーの。  頭の中で最後に見た、端正で余裕綽綽な顔を思い出すと、憂鬱な気持ちとは裏腹に、久しぶりに会えることへの期待がやまないのも自覚していた。  意図的に会うことを避けていたくせに、我ながら女々しい。 「いらっしゃ——、おー、那生! やっと来たかー」  意を決して店内に足を踏み込むと、カウンターの中から懐かしい顔が威勢よく声をかけてくれた。 「久しぶり、晃平(こうへい)。元気だった?」  頭にタオルを巻き、食材を前に切り盛りしている男に声をかけると、人懐っこい笑顔がカウンターからこぶしを突き出してきた。  那生は応えるように自身のこぶしを差し出すと、そこにコツンと合わせる。  高校の時から変わらない挨拶は、数年のブランクをいとも簡単に埋めてくれた。 「お前なぁ、家近いんだからたまには店に顔出せよな」  居酒屋の店長を任されている瀬尾(せお)晃平(こうへい)はぶっきら棒な口調でも、濡れた手を前掛けで拭きながら那生のところまで飛んできた。懐かしそうに肩を組むと、溢れんばかりの笑顔をくれる。 「いや、なんか……毎日忙しくってさ。中々タイミングが——」 「まあそうだよな、新人の医者は仕方ないか。体が資本の職業だしさ。それより懐かしい顔ぶれが揃ってるぞ、みんな奥の座敷にいる」 「そっか、わかった」 少し大人っぽくなった晃平の指し示す方を見やると、襖の隙間から賑やかな声がもう溢れている。 「あ、そういやあいつはまだ来てないぞ」  座敷へ向かおうとする背中にかけられた言葉に、心臓が異常なほど反応してしまった。 「えっ……あ、ああ」 『あいつ』と言う単語だけで、神宮の顔を真っ先に浮かべてしまう自分が悔しい。情けないと分かりつつも、緊張で喉が狭まり言葉が詰まってしまった。 「来れるかどうか分からないとは言ってたけどな。でもあいつたまに、飯食いにフラッと来たりするんだぜ」 「へー、そうなんだ」  晃平の言葉が棘のように胸に刺さる。自分は何年も会ってもないのに、晃平の店には足を運んでいるのだ。  いや、別にそれはどうでもいい。あいつが誰とあおうが、どこへ行こうが知ったこっちゃない。会わないように避けていたのは自分だし。  那生はフーッと深い息を吐いた。  誰かが『神宮』の名前を呼ぶ度、話題にする度に、あの嫋やかな体や髪に誰かが触れていることを想像し、それだけで呼吸が遮られそうになる。  ——ほんと、女々しい。 「おーい、那生。こっちこいよ!」  貸切の奥座敷から店内中に響く声で呼ばれ「声、でっかいよ」と呆れながら、那生は手招きしてくる興津(おきつ)友弥(ともや)の横に腰を下ろした。 「しっかし、久しぶりだな那生。相変わらずのカワイイ顔も健在で」  再会を喜ぶ友弥に頬をツンツンと突かれ、那生は数秒だけされるがままになっていた。この戯れも高校からの恒例で、数年分の懐かしさを甘んじて受け入れていたのだ。 「はい、終わり! それにカワイイとか言うなよな。もう三十路なんだ——あ、そうか、わかったぞ。お前、生徒達にガキ扱いされてて、その鬱憤を俺で晴らそうとしてるんだろ」  茶褐色の前髪の奥から黒目がちなアーモンドアイを覗かせ、那生は友弥の鼻頭を摘んで言ってやった。 「はぁー。生徒からの俺への信頼を見せてやりたいよ。この懐の深い俺の教師っぷりをな。それにな、何年経とうがお前のちょい気の強い性格はたまんない。だからお前が可愛くて悪い」 「何だよその理屈は。口から生まれた友弥こそ何年経っても変わんないな」  会わずにいた距離を縮めてくれる友人の笑顔に安堵し、胡座を解くと壁に背中を預け、那生は足をテーブルの下に伸ばした。 「高校卒業して、すぐの同窓会に参加したっきり、ずっと欠席だったもんな。そんなに医者ってのは忙しいのか」  メニュー表を見ながらズレた眼鏡を直す、見慣れた仕草の友弥が優等生の顔になると、見透かすような視線を那生に送ってきた。 「まぁ……ね、下っ端だから俺はこき使われてんだよ。それより先生まだ来てないのに先に始めてていいのか?」  周りを見ると、あちらこちらで賑やかにドリンクの注文が始まっていた。 「さっき連絡あってもうすぐ着くってさ。そのうち来るよ」  その言葉とほぼ同時に、入り口の方から晃平の賑やかな声が聞こえ、主役が登場した事が伝わる。 「おーい、みんな奈良崎(ならさき)先生来たぞー」  幹事の大瀧(おおたき)の声で雑談の声が静寂と化し、全員の視線が一斉に着古したスーツ姿の男性に注がられている。 「先生! お久しぶりです!」  カウンターから出てきた晃平が、深々と頭を下げて挨拶をしている。 「瀬尾かー。偉く殊勝な態度だな」 「そりゃもう大人ですからね。店もまかされたんでシャントしとかねーと」  鼻の下を指で擦りながら、照れたように晃平が答えていると、その癖も変わらないなと、奈良崎が懐かしそうに微笑んで上座に腰を下ろした。 「先生! お疲れ様です」  主役を待ち構える大勢の元男子高校生が、野太い声で一斉に挨拶をした。 「お疲れさん。みんな元気そうだな」  和やかに微笑む奈良崎が懐古を重ねるよう、ゆっくりと教え子達の顔を見渡している。昔と同じよう、欠けた顔がいないかを確かめるように。 「先生、定年おめでとうございます。教員人生お疲れ様でした」  大瀧が厳かに頭を下げ、挨拶をすると、その言葉に倣うよう、他の生徒も深々と頭を下げて恩師に敬意を示している。 「ありがとう。みんなに祝って貰えて教師冥利に尽きるよ」  タイミングよく緩ませる口元が懐かしい風景を思い出させ、生徒それぞれの脳裏に思い出の場面でも浮かんだのか、部屋は一瞬、ノスタルジックに染まった。 「えー、では先生も来られたことで始めたいと思います。こーへー、挨拶!」  名前を呼ばれた晃平が頭のタオルを外すと、出席者達の視線を浴びながら咳払いをし、よそ行きの顔を向けてきた。 「えー、これより県立青松(せいしょう)高校第五十三回卒業生、三年三組による奈良崎先生を囲む会、兼同窓会を開催致します。まず奈良崎先生から一言お願いします」  かしこまった晃平の挨拶を合図に、三十二名の参加者が一斉に拍手をする。揺れる歓迎の波の中、奈良崎が照れ臭そうに立ち上がった。 「今日は私のためにみんな集まってくれてありがとう。十年振りに懐かしい顔に会えて、私は幸せ者だな。みんな、感謝しているよ。乾杯っ」 「かんぱーいっ!」
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