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「ではその学生さんの探してる、伊織って人と被害者がメ、メグ、す……たハモンって店で一緒にいたのを見たと」
舌を噛みそうになりながら、難解な店名を復唱する南條に、那生と神宮は必死で笑いを堪えていた。
「まあ、そう言う事です。でも周——うちの学生が『伊織』と思い込んでいるだけかもしれません。向こうは肯定も否定もしませんでしたから」
今までの一連を掻い摘んで説明する神宮に、何かしらの情報を得ようと南條が一言一句聞き漏らさないよう、食い入るように話しを聞いている。
「その伊織さんらしき方は、四聖総合病院の息子さんなんですね」
「ああ。そこの病院の次男坊だ。兄貴は瑞季って言って確か二十三歳だったかな」
刑事を前に怖気づくこともなく、堂々と答える神宮。落ち着いて語る姿は、高校の時から──いや、それ以上に凛々しい男になって、那生を誇らしい気持ちにさせてくれる。
「だったよな、那生」
「あ、ああ。伊織君は十九歳だったかな」
突然話を振られ、那生は慌てて返事をした。
「そうですか、四聖病院ですか……」
「刑事さん、さっきの亡くなった人って、そのどうやって……」
「いえ、一般市民の方にはこれ以上の捜査内容は話せませんよ」
南條は首を左右に振り、回答を拒否して見せる。またうっかり口を滑らさないよう、神宮に牽制を効かせようとしているのがわかりやす過ぎる。
「そうですか。そうですよね、素人の出る幕じゃないですね」
「市民を守るためです。ただ被害者は身元がわかるものを持ってなかったので、お二人には申し訳ありませんが……顔を見て確認して頂く事になるかと思います」
「わかりました。でも、俺達が知ってるって人は、ただ顔を見た程度の一方的な知り合いです。それでもお役に立つなら」
頼りなげに言う南條の言葉に、臆せず話す神宮を見ていると、どっちが刑事かわからない。そんな神宮から目配せされ、那生はその意味を瞬時に理解して小さく頷いて見せた。
「はい、お願いします……」
「でもあそこ、凄い出血ですね。あれは誰がきれいにするんですか?」
アスファルトに染みついた血痕を指差し、神宮が質問すると、簡単に応じられる質問だと思ったのか、南條が嬉々として答えてくれた。
「ああ、あれは鑑識が作業を終えたら清掃しますよ」
「そうなんですか。鑑識の方も大変ですね、遺体の鑑定もしないといけないのに、現場の片付けまでなんて」
「まあ、そうですね……。日頃から迷惑かけてばかりなんで、自分がしてもいいくらいです。でも、それに報いるためには犯人逮捕に全力を注ぎますよ」
「刑事さんも大変なお仕事です。尊敬しますよ。それに、今の女の人よりもっと目も背けたくなる現場に当たったりするでしょう?」
神宮が尊敬の眼差しを向けると、南條が、まあ、そうですねなどと言い淀んでいる。
「あんなに血が大量に流れたら出血死になるのか? 那生」
「そうだな、ショック死すると思うよ。でも致命傷が何処かにもよると思うけどね」
神宮の頭の中が透けて見えるように彼の思惑を悟ると、那生は知り得る知識を飄々と語ってみせた。
「お前なら遺体見たらだいたいわかるんじゃないか?」
「まあ、大体はね……」
二人のやり取りを素直に見ていた南條が、何か閃いた顔をし「あっ」と声を上げている。
「あの、あなたお医者さんですか?」
「ええ、一応」
謙虚に那生は返事をしてみた。
「那生の見解は?」
「そうだな、結構な量だったからきっと刃物で刺されたんじゃないかな、それもかなり深く」
「例えば?」
「胸……とか? いや背中かな……」
真剣な顔で那生が首を捻っていると、
「いえ、違いますよ。腹部です、刺されたのは。しかも妊婦さんだったから、お腹の赤ちゃんまで一気に横から切り裂かれ——ってあー! し、しまったぁ! ぼ、僕はぁー」
軽快に話す二人の会話の流れに乗った南條が、つい被害者の死因を溢してしまった。
「に、妊婦さん! ほ、本当に刑事さん!」
「あー、先輩に怒られる! ヤバイ! あーもう、だから僕は一課のお荷物って言われるんだっ」
一人でもがき、醜態を悔やむ南條の耳に那生の言葉は届かず、大きな体を折り曲げて途方に暮れている。
「な、刑事さん。凹んでるとこ申し訳ないけど、もう俺ら聞いちゃったから。それより被害者の人って妊婦さんだったんですね?」
半泣きの南條に追い討ちをかけるよう、神宮が追い詰める。
「もう、何ですかあなた達は。って悪いのは僕か——」
その場にしゃがみ込み、今にも泣きそうな顔で反省をしている南條へ、那生が顔を近付けると、頭を下げて謝った。
「刑事さん。ごめんなさい、誘導したみたいで。でもさっきの話は本当ですか? 亡くなった人がまた妊婦さんで腹部を切られたって」
俯いていた顔をチラリと上げ、恨めしそうに南條が二人を見つめてくる。
「……そうです。お腹に赤ちゃんいたんです。でも腹部を刺されて出血多量で。発見された時は既にショック死状態でした」
観念したのか、南條がボソボソと語っている。その姿は半ばヤケクソにも見えた。
「神宮……、栞里さんと同じだ……」
「そうだな……。今の被害者も妊娠五ヶ月くらいだろ、きっと」
「しおり——?」
うずくまっていた南條が急に起き上がり、那生は想像を絶する力でまた肩を掴まれた。
「き、君! 今『しおり』って言いました?」
「な、何! 刑事さん。い、痛い。痛いですって」
手加減のない力で掴まれ、その後には悪酔いしそうなほど体を揺さぶられた。その様子を見兼ねたのか、神宮が頑丈そうな腕を払い除けると、「刑事さん、市民に暴力はダメでしょ」と、低い声で威嚇している。
「た、環。大丈夫だから」
那生を——友人を守ろうと、相手を制圧する姿は高校の頃と変わらない。それを嬉しく思いながらも、相手が相手なだけに慌てて止めに入った。
「す、すいません。ごめんなさい、違うんです。僕は今、あなたが言った名前を確かめたくて」
「え、栞里さんのことですか?」
乱れた襟元を整えながら那生は答えた。
「そうです、その名前の人って——しかもあなたさっき『また妊婦』って言ってましたから」
さすが刑事——と、言っていいのか、やり取りした会話の内容を聞き漏らさず指摘してきたことに、さっきよりは刑事らしく見える。
「……宮野栞里。さっきの被害者と同じように殺された妊婦で、四聖病院の患者さんだった」
不機嫌そうに言う神宮に気をもみながら、那生はほんのちょっとくすぐったさを感じていた。自分のために南條に食ってかかってくれたことを。
——ついさっき、部屋でされた、セクハラ紛いなことにはまだ怒りは残ってるけど……。
「な、何であなた達その名前知ってるんですか? しかもどうして妊娠周期まで……四聖病院の事も——何で、何でー?」
軽いパニック状態の南條が、冷や汗を掻き狼狽ている。
被害者の事を知るかもしれない人間が殺人現場にいた。しかも他の事件のことまで知ってる口ぶりに、刑事としてこの二人を逃すわけにいかないと、そんな南條の心情が二人には手に取るように伝わってくる。
「刑事さんが考えてること分かるし、それ、きっと外れだから」
的外れな南條が少しかわいそうに思ったのか、神宮が憐れみの目を向けている。二人のやりとりに、那生は高校の時にもこうやってよく、神宮にやり込まれた場面を見たなと、懐古の景色を脳裏に思い浮かべた。
「栞里さんは俺達の恩師の娘さんなんですよ。この間の葬儀にも参列しました。彼女が妊娠五ヶ月だったのは、恩師に聞いたんですよ」
神宮の声が耳に入って来ないのか、二人の顔を交互に見比べる南條が、再び何かを閃いた表情になった。その瞳は少年のように輝き、意気揚々と人差し指を立てて満面の笑顔を向けて唇を動かした。
「わかった! あなたたち、元医者の探偵でしょう!」
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