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 宝生大病院の屋上の扉を開けると、那生は紫煙を纏う背中へと、ゆっくり近付いて行った。 「講義、終わったんだ」  那生が声をかけると、携帯灰皿に吸いかけの煙草をねじ込む神宮と目が合う。そんな些細な仕草さえ秀逸で、薄暮の空に映える輪郭が相変わらず美しい。  完璧な相好の親友に、那生は数秒だけ見惚れてしまった。 「ああ。那生は?」  白衣をはためかせながら歩み寄ると、那生は珈琲のカップを手持ち無沙汰になった神宮の手に渡した。 「外来なら終わったよ」と、付け加えて。 「今? もう四時だぞ。これから昼飯で、また菓子パンか……」  仕方なのないやつ——なんて声が聞こえてきそうな顔で言われた。  白衣のポケットからはみ出しているメロンパン。神宮はもう、覚えてないんだなぁと落胆した。  高校の時、バスケ部の練習でへとへとになった帰り道、バイト三昧の神宮と偶然出会してもらったパン。その後も、買ったけど甘いから食わないとか、家にあったから食ってくれとか。何度かこのパンをもらった、大切な思い出だ。   「美味いよ、安定の味」と、かじりかけの遅メシを、神宮に差し出してみる。 「甘いのは苦手だ。忘れたのか」  問われても、苦笑するしかなかった。明るく、覚えてるぞ──なんて言えたら楽なのに。    ——忘れるわけない。甘いのが苦手なことも、猫舌なのも。環のことなら……。  パンを頬張る那生の横に座った神宮が、渡した珈琲を口にした。  あの唇が、ここに……。思い出して、那生は自分の唇にそっと触れた。  あの日、神宮が何を考えてあんなことをしてきたのかわからない。こうやって二人でいるのに、怖くてその理由を聞くことができない。   「珈琲、ちょうどいい温度だな」  ひと言呟いて、神宮がまたカップに唇を触れさせる。その口元は緩やかに微笑んでいるように見えた。 ——そうだな……こんなことだけで十分だ。  顔を空に向けて、ゴールのないグラデーションを見やった。  日の入りが演出する、青からオレンジ、そして夜を誘う薄紫が扇状に描かれて美しい。広大な空を見ていると自分の気持ちは本当にちっぽけだ。  あの日、神宮にされたことは、きっと色々あって彼も神経が昂っていたのだ。冷静に振る舞っていても、恩師のことを気にしていたのだ——そう思っている方がいい。  緩徐に移り変わる景色に肌寒さを感じながら、やりきれない気持ちを珈琲と一緒に飲み込んだ。 「そう言えば、あの刑事から連絡きたけど、那生んとこにもきたか?」 「ああ。着信あって折り返したよ、さっき」 「あの赤いワンピースの人の身元判ったみたいだな」  口元まで運んだパンを寸での所で止め、口の中に残るかけらを無理やり飲み込んだ。水分のない異物が喉元を通り、珈琲でふやかすと那生は言葉を選んで吐き出した。  「聞いた……。その人も四聖病院の患者さんだったんだよな」 「ああ。それに栞里さんと同じくらいの妊娠周期だったんだってな」 「そう……みたい……だな」  屋上から遠くに見えるビル群に翳でき、言いようのない悲しみが心に沁みてくる。身勝手な犯人の手によって、まだこの世界を知らない小さな命まで奪うなんて、人間のすることじゃない。 「犯人も、亡くなった人も、俺達も、人間はみんな同じように、母親のお腹の中で育まれ、この世に生まれる。その瞬間は、きっと産んでくれる人も、生まれて来ようとしてる側も、苦しくて必死なんだ。それを覚えていれば、人の命を奪うことなんてできない……。俺はそう……思う」  言いながら、泣きそうになった。それが伝わったのか、神宮の手が那生の頭に触れた。  この優しさが、更にこの胸を苦しくさせているのに、やめて欲しいとは言えない、そんな自分はなんて弱いんだろう。 「……友弥が調べた、これまでに起きた二件の殺人は、四聖は関係ないよな」    髪の先に残っていた神宮の指先が離れると、真顔で聞かれた。 「南條さんに聞いたら、みんな住んでた場所も、通ってた病院も違うって」 「埼玉と千葉だっけ? 年齢もみんなバラバラだけど、妊娠周期だけが近い——ってこと……か」  神宮のそのひと言にゾッとし、那生は節足(せっそく)動物が背中を這ってるような感覚に襲われた。 「南條さんが猟奇殺人とか言ってたな」  珈琲のカップを両手で覆い、那生は無意識に足を踏ん張っていた。そうしておかないと、全身が震えてしまいそうだった。 「ああ。でもあの南條って刑事、あの時は俺らに喋りすぎたって、悲壮な顔をしてたのに、今はベラベラ喋ってくるんだな」 「ほんとだな」  自然と笑顔が溢れ、笑ったことを自覚した那生は奈良崎の顔を思い浮かべ、すぐその緩めた筋肉を引き締めてしまった。 「問題はもう一つあるんだよな」 「周君——」 「あいつに伊織とやらには彼女らしい人がいる——いや、いたってことをどこまで話すかだな」 「ショックだろうな……赤ちゃんまでいたってなると尚更」  目の前に広がる景色が、次第に宵闇へ移り変わるのを眺めながら、二人は沈む夕日と同じように気持ちも沈鬱させていた。 『伊織』を探し、ようやく本人かもしれない人物を見つけた。伊織を見て涙を溢し、再会を喜んでいた。  だからこそ、伊織本人だと前提で全てを話すべきなんだろうなと、那生は自身に言い聞かせた。  なるべく周が傷つかないようにしてあげたい。黙ったまま横にいる神宮も、きっと同じことを考えているのだろう。 「久しぶりに晃平のとこに飲みに行かないか……」  沈黙に口火を切ったのは神宮だった。風になびく髪をかき上げながら、淀む空気を払拭してくれる男に見惚れ、那生は返事を返すことを忘れてしまった。 「那生。どうーする? 行かないのか」    目の前で手のひらをチラつかせられ、那生は惚けていた頭を軽く振った。 「あ、いや、何でもない。晃平の店だろ、行くよ」 「じゃ、お前のマンションの駐車場に車止めてから行くか」 「え、ウチ?」 「……都合悪いことでもあるのか?」  涼しい笑顔で威圧し、有無も言わさない空気を作る。これも高校の頃と変わらない、那生が翻弄されてしまうほど、好きなところだった。 「いや、何でもない。いいよ、車は来客用に止められるから」 「じゃ、決まりだな。その日は泊まるから。仕事終わったら連絡くれよな」 「えっ! と、泊まるのか! うちに?」 「飲むから運転出来ないだろ」  泊まる? 家に! 冗談じゃない、また睡眠不足になってしまう。焦った那生は「じゃあ電車にすれば」と、抵抗してみた。 「それは面倒だ。別にいいだろ、はい、決まりな」 「ちょ、ちょっと。もう勝手な奴だなー」  精一杯の反抗をして見せるも、神宮には何の効果もない。それは充分過ぎるほど知っている。鼓動が堰を切ったように激しく震えだすのも自分だけ。  邪な感情を暴かれないよう「わかった」と、那生は結局折れるしかない。
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