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 呼び出された部屋は、いつものようにひんやりとしていた。  壁に設置されているサイドボードには、様々な色と輝きを放つ鉱物が原石のまま飾られてある。  中でも、ろうかんと呼ばれる最高級の翡翠が一際輝いていた。  美しい石たちに囲まれているせいか、男の醸し出す雰囲気は訪れるものを跳ね除けるようだなと、いつも思う。  心理的に恐怖を感じさせる冷気が空間を支配し、差し込む月明かりが伊織の表情に翳の凹凸を浮かび上がらせ、目の前に座る男からは捕食される小動物のように見えているのだろう。   「もう仕事には慣れただろう、伊織」 「はい……少し」 「まだお前は始めたばかりだ。これからも瑞季(みずき)を手本にするんだ」 「……はい」  遠いところから見下ろす月の光を背に浴び、目の前の男の表情は口元以外、逆光でよく見えない。それが一層、伊織に恐怖を与えてくる。 「まだまだ瑞季には及ばない。兄と肩を並べる努力をお前はもっとしろ」 「はい、申し訳ありません……」  男が発する低音の声も、皮肉を抑制するかのような口調も、全てが伊織を威圧してくる。意見も反論も自分には許されない。ただ、支配者に従うしかない……。 「それでも今日はお前に罰を与えなければならない。理由はわかっているだろう」  支配者の問いかけに、伊織は小さく頷いた。 「あれだけ言っていたのに、輸入物で誤魔化すとは。お前は私の信用がなくなればいいと思っているのか? 分限者(ぶげんしゃ)達は日本のものを好む。最初に教えたことだろう」  恫喝されたわけではない静かな声ではあったが、男の声は硬く、怒りを含んでいる。  ゆらりと椅子から立ち上がった男は、伊織の前に来ると、地を這うような声で、膝まづけと言った。  指示通り伊織が床に膝をつけると、男は手にしていた鞭のフラップ部分を自身の手のひらに当て、パシパシッと空を切る音で威嚇してくる。  グリップ部分がブラックホースを型取り、馬の目にはアメジストが光っていた。馬上鞭では済まないと、男の目は言っている。  男が手のひらに打ち付けるのをやめると、グリップを強く握り直し、天井に向かって振り上げた。 「うっ! くぅ……」  (しな)った鞭は伊織の背中に振り下ろされ、折檻を繰り返されると、体が前に倒れてしまった。  伊織は髪を掴まれ、再び上体を起こされた。   「も……しわけ……ございませ……うっ。あ、あのような事はもう決して……」 「……伊織、非情になれ」  恐怖で俯く事しかできない伊織に、男は近づき震えている顎を捉えると、力強く指で引き上げられた。  体に刺激を与えられ、この男が好む人間になるまでこの調教は終わらない。 「……うぅ」 「一つ教えてやろう、瑞季にあってお前にないものを」 「な、なんでしょうか……」  男は顎を掴む指に一段と力を込め、酷薄な唇で口角を上げた。 「瑞季には迸る程の『多幸感』がある。だがお前にはそれがない」  指で顎を弾かれると、伊織はその反動で床に転がり、圧倒的な支配力を持つ君主を見上げた。目の前にいる男の顔は月影に照らされ、妖しく伊織を見下ろしてくる。その姿は何度見ても恐ろしい。 「も……もうしわけ——」 「足りない理由もわかっている。お前は愚作だったからな」 「すいません……」 「お前はいつも謝ってばかりだな。親子なのだからそう萎縮するな」 「はい、申し訳——」 「ハハ、言った側からか。面白みのない奴だ」 「以後……気を付けます」 「お前の取り柄はそのキレイな『顔』だけなんだ、しっかり活用してくれ。私のためにも、四聖のためにもな」 「はい、お義父さん……」 「ただいま、パンセ」  薄暗い部屋で主人を待っていた唯一の癒しが、足元に擦り寄り甘えた声を聞かせてくれる。柔らかい毛並みに触れると、苦痛や絶望から少しだけ解放されたように思え、伊織は小さな命をそっと胸に抱き締めた。  窓際の間接照明を灯しソファに座ると、膝の上に飛び乗る柔らかくて暖かい存在は、疲れた心をいつも溶かしてくれる。 「今日もお義父さんに叱られたよ。でも仕方ないよね、僕は出来損ないだから」  漆黒の艶やかな毛並みを撫でながら、伊織は悲しげに独り言ちた。 「兄さんには敵わない、小さい頃から何をしてもね。だから僕はいつもお義父さんを苛立たせるんだろうな」  膝の上で喉を鳴らし、柔らかな体をすり寄せる仕草は、伊織の気持ちを察して慰めてくれているように思もえた。 「そう言えば……」  仄暗い天井を見上げ、ふと思い出した。    ——この間、病院に来た人は誰だったんだろう。  日に焼けて、快活そのもので自分とは正反対の人。あの後、何度か病院で彼を見かけたものの、関わる気のなかった伊織は、鉢合わせしないよう避けてやり過ごしていた。 「太陽みたいだったな、明るくて……。僕とは大違いだ」  夏の香りを思わせる人物の顔を思い出し、伊織は白くてか細い自身の腕を眺めてみる。  生っ白くてひ弱な体だ。  彼のような人間に生まれていれば、もっと違う考えが生まれ、もっと違う言葉を叫べていたかもしれない。  暗く陰鬱な環境に身を置かざるを得なかった人生に何も期待することもなく、ただ息をし、心臓が動く限り生きているだけだ。  伊織の鬱屈した思いを受け止めるよう、膝の上には丸まって寝息を立てている、唯一の味方が温もりをくれる。  一日でこの時が、唯一ホッと出来る瞬間だった。けれど、それは束の間のこと。  幸せな時を引き裂くように、玄関の呼び鈴が部屋に鳴り響く。  眠っていた安らぎは怯えてしまい、一瞬で伊織のもとから去って行った。   もうそんな時間か……。  物思いにふける間もなく、伊織は無意識に溜息を吐くと、玄関に行って鍵を開けた。 「伊織、腹減った。飯出来てるかって、部屋暗っ!」  ドアを開けて開口一番、瑞季が言うと、那生は脱ぎ散らかした靴を揃えた。 「兄さんお疲れ様。ごめん、すぐ電気付けるから」  廊下にドカドカと足音をさせ、慣れた様子でリビングまで来ると、瑞季がジャケットをソファに投げつけた。 「あー疲れた。あいつらうるさいったらありゃしない。瑞季、瑞季って」  リビングの椅子に腰掛けた瑞季が、手のひらを上に向け、指先だけを小刻みに曲げて催促するような仕草をしている。伊織はそんな瑞季の手に、水の入ったペットボトルを握らせた。 「仕方ないよ、この間のCMで兄さんの人気に火がついたんだから」 「CMったって横顔のシルエットだけだぞ。何で俺って分かるんだ」  温まった鍋からシチューを皿に盛り付け、今にも睡魔に負けそうな瑞季の前に、そっと置いた。  同じメニューは今週だけでもう三度目だ。  気に入った料理しか食べたがらないから作る方は楽だが、健康面が心配だ。それに付き合う自分も含め。  でも、今日は食欲がない……。 「ファンにはわかるんだよ。シチュー、温まったからもう食べれるよ」 「んー」  伸びをしたままの腕をダラリと下ろすと、決して上品とは思えない作法で瑞季がシチューを頬張ってる。  まるで三歳児の食事風景を見ているようだ。  口の周りが汚れても、気にせず食べる。その汚れた箇所をナフキンで拭ってやるのも、伊織の仕事の一つだった。 「お前食わないの?」  一人前しか並べられてない夕食に気付き、射抜くような目で睨まれた。 「うん、僕はお腹一杯——」  言い終えないうちに、テーブルの上にスプーンを叩きつけられ、付着していたシチューが四方に飛び散る。  脳が全身を萎縮させ、伊織の背筋を一気に凍らせた。 「何だ、その目は。食えよ!」 「ご、ごめんなさい!」  飛び上がるように席を立ち、伊織は自分の分の皿にシチューをよそった。 「悪い。キツく言い過ぎた」  慰めるように優しい表情で謝罪をしてきた。その姿はカラメルソースのように、甘みから苦味に変わる。  瑞季は疲れてる時や、イライラしている時は一人で食事をしたがらない。その癖をわかっていたのに、今日はどうしても食べ物を口にしたくなかった。 「大丈夫。気にしてないよ、兄さん忙しいのに僕が悪いんだ」 「そうそう、お前が悪い。さ、食おーっぜ」  優しい顔は消え、無表情で瑞季がバケットにシチューを浸して頬張っている。ジュルジュルと下品な音をさせ、口の周りをまた汚す。  それを伊織がまた、拭う。  獣のように本能のまま餌を喰らっている瑞季の食事風景は、兄という名の獣と化し、陶器にスプーンを当てる音や、耳障りな咀嚼音を部屋に響かせてくる。  目と耳を塞ぎたかったけど、そんなことをすれば今度はきっと暴れ出す。  伊織は黙ったまま、無理矢理胃袋に夕食を詰め込んだ。 「じゃ、俺部屋帰るわ」  席を立つタイミングを見計らい、伊織は瑞季に水を差し出しす。このルーティンも忘れてはいけない。  食べこぼしが散乱したテーブルの上に、コップを荒々しく置かれ、玄関へ向かう瑞季を慌てて見送りに後を追いかけた。 「明日は朝九時に起こせよ。マネージャーが来るから」 「はい」  そう言い捨てると乱雑に靴を履き、壊れそうな音でドアは閉められた。 「もう出てきても大丈夫だよ、パンセ」  瑞季の気配が消えたのを確認するよう、注意深くベッドの下から這い出し、伊織の足に頭を擦り付けて安堵したように甘えてくる。 「お前もご飯にしようね」  専用の皿にカラカラと音をさせると、待ち構えていたように勢いよく頬張り始めた。  怖くて震えていたことを労うよう、伊織はそっと頭を撫でてやる。 「昔の兄さんだったらパンセも怖くなかったのにね……」  夢中で皿を舐める無防備な背中に触れ、伊織は一方通行の会話をしていた。 「あ、あの子にも水あげなきゃ」  ルーティンの一つである花の水やりを思い出し、窓辺にある鉢に水を注いだ。 「今年の夏も花は咲かなかったな……」  鮮やかな黄緑色の葉に触れ、昔から大切に育ててきた感情だけを思い出していた。 「この鉢はいつから僕のところにあったんだろう」  時々曖昧になる過去の記憶は、いつもモヤがかかったようにハッキリしない。思い出そうとすると頭痛がして、まるで体が思い出すなと指令を出しているように思える。  伊織は汚れた皿を洗いながら、明日が受診の日だったことを思い出した。  早く寝ないと──。思った時、伊織は泡の付いた手を止めた。胸の奥の方で疼く、どこか優しい感情を抜き取るよう、胸元の布を知らずに掴んでいた。  時々起こる発作のような胸痛。だがこの痛みは悪いものではない。なぜかそう思う。  目を閉じて、苦しく、くすぐったい違和感が過ぎ去るのを待っていると、日に焼けた彼の言葉が唐突に蘇った。 『伊織に会いたかった……』  何故あの人は自分の名前を知っていたのか。過去のどこかで会ったことがあるのだろうか。  自分が忘れているだけなのか、それとも彼の人違いなのか。  わからない、新しいことを考えようとすると頭が痛くなる。    今の伊織には何かを変えたくてもその力はない。逃げ出したくても逃げられない。もし、変化を望めば、それは命を差し出すほどの重大な罪になる。  日々決められたレールに乗って、同じルートをぐるぐる回るだけの一生。  救いを願うことは愚かで無駄なことだ。  早く眠ろう……。眠りの中だけは、誰にも邪魔はされない。  眠ってる時だけは誰の言いなりにならなくてもいい。その時だけが自分だけの時間だ。  支配される一日が今日も終わった。だが、また明日もやって来る。  狂者に怯え、また虚な日を迎えるため、伊織はひと時の幸せを求めて目を閉じた。  
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