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バイトからの帰り、周は少し遠回りをして四聖病院の前で足を止めた。
伊織が口にした、周のことを知っているような口ぶり。そのことが頭を離れず、性懲りも無く病院へ来てしまった。
四聖病院の外壁が巨大な影を作り、要塞のように周を威嚇してくる。
直感のような不可視なものだが、どうしても不気味な場所にしか思えない。
この病院は、あまりにも伊織には似合わないと思ってしまう。
「伊織……ここに引き取られて、お前は幸せなのか……。島のことを忘れるくらい」
自然に口を突いて出た本音が、島で過ごした日々を儚くさせる。
先へ進む手立てがない今の周には、病院の外で肩を落とし、途方に暮れることしか出来ない。
重い溜息だけを残し、踵を返して家路に向かおうとした。すると足元に、月明かりから伸びた人影が重なって、周は顔を上げた。
「い、伊織……?」
会いたくて仕方なかった存在が突然現れ、幻かと目を眇めてしまった。
「君は……」
こんな夜中に出会うはずのない人物に、伊織が明らかにギョッとした顔を見せたが、周は会えたことが嬉しくて仕方なかった。けれど、すぐ別のことが頭に浮かんでしまった。
——ヤバい、俺、ストーカーだと思われてるかも。
「ご、ごめん。別に待ち伏せしてたわけじゃなくて、たまたま通りかかっただけで。俺……」
弁解してみたけど、これは明らかに言い訳に聞こえる。伊織から見れば、今の自分は不審者だと思われてもおかしくない。
「こ、こんな遅くまで仕事か?」
誤魔化すように聞いてみたけど、実際に気になっていたことだ。
今は夜の十時を回っている。こんなに夜遅くまで働いているのかと、純粋に伊織のことを心配してしまった。
「き、君には関係ない……」
「関係ないかもしれないけど、遅くまで働いてるのを心配したっていいだろ。重そうな荷物まで持って」
周はさっきから、か細い腕でずっと握りしめているクーラーボックスが気になっていた。
「いや、これは……」
「俺運んでやるよ、力だけはあるからさ。病院の中だろ?」
少しでも一緒にいたくて、お節介かと思ったが、周は伊織の手にある取手を掴んで運ぼうとしたが——
「さ、触るな!」
隠すようにボックスを両手で抱え込み、怯えた眸を泳がせている。
「ど、どうしたんだ、伊織……」
問いかけると、伊織が体を震わせ、縋るような表情に移り変わった眸で周を見ている。その姿にどうしようもない庇護欲が湧き、周は有無も言わさずもう一度ボックスの取手を握った。
「か、帰ってください!」
強がる言葉を叫んでも、伊織の顔は頼りなげで放っておく事が出来ず、周は無理やり手首を取っていた。
「は、離して!」
掴まれた手首を振り解こうと暴れても、周はびくともせず伊織の体ごと引き寄せた。
自分の胸でだき抱えると、その中でもがく伊織に下から睨まれてしまった。
綺麗な顔で凝視してくるから、思わず、ごめん──と、頭を下げた。その時、月明かりに照らされた伊織の白い頬に、赤いのシミのようなものが付着しているのを見つけた。
「伊織! そ、それ血じゃないか。怪我してんのか、見せてみろ」
「ち、違う! よせ! もうほっといてくれ——」
周の手を振り払おうとした時、手に持っていたクーラーボックスが伊織の手を離れ、空を舞った。
静まり返る漆黒の中、アスファルトに叩きつけられられたボックスは鈍い音を響かせ、地面に転がった。
「ああっ!」
叫び声と同時に、伊織が一目散にクーラーボックスのもとへ駆け寄った。
「おい! い、伊織。お、お前それ……」
落ちた衝撃で半開きになったボックスから、どろりとしたどす黒い液体が流れ、その正体が周の顔を蒼白にし、伊織の方へ視線を向けた。
「な、何でもない! 早く帰って! 帰れよ!」
中身を隠すよう伊織が両手を広げ、ボックスの前に座り込んだ。けれど垣間見えた赤黒く変色した塊はもう、周の脳裏にこびり付いて離れなかった。
「何でもないじゃないだろ! 何だよ、それ!」
蓋の隙間から滴るものが悍しいモノを連想させ、周は大声で叫んでしまった。
「も……ど、どうしよう。どうしたら……また怒られる……」
目の焦点が合わず、平常心をなくした伊織に周は思わず駆け寄っていた。
「伊織! しっかりしろ!」
震える肩を抱き締め、なんとか正気を戻そうと背中を撫でてみた。
「ごめんなさい、お義父さん……ごめんなさい……」
うわ言のように唇を動かす伊織に困惑しながらも、周が何とかしようと、頬を軽く叩いたり、体をゆすってみたりした。
「大丈夫、大丈夫だから。俺がいるから。ゆっくり息して、伊織」
崩れ落ちそうな体を支えながら、周は優しく囁いた。
「ごめ……ごめん……さ……い」
青ざめて冷たくなった頬に伝う雫ごと、周は両手で慈しむように怯える輪郭を包み込んだ。
「伊織、大丈夫。大丈夫。ずっと側にいる、俺が側にいるから」
青黒い夜の色が頭の上に広がり、更に伊織を追い詰めようとしている。周は支えるように伊織の体を抱えると、横で転がったままのボックスを元に戻した。
「……すけ、たすけて……」
消え入りそうな声で呟くと、瞼を痙攣させてそのまま閉じてしまった。
「絶対に助ける。もうひとりにはしない」
壊れ物を扱うように周は伊織をだき抱えると、そのまま背中に背負った。
クーラーボックスを首から下げ、このまま自分のアパートに帰ろうかと思った。けれど、この首に下げているものの対処がわからない。
周はスマホを取り出し、救いを求めるよう電話をした。
スマホの明かりと月明かりを借り、周達の姿は闇の中で浮き彫りになっていた。その姿を鈍色の雲が映る窓から、刺すような視線が向けられていた。
その眼は虎視淡々と獲物を狙う、そんな獰悪な獣の目をしていた。
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