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「周君、着いたぞ。開けて」  深夜と言うこともあり、那生は極力小さな声でスマホに語りかけた。 「那生、青白い顔して大丈夫か? 当直明けだろ?」  不意に前髪をかき分けられ、神宮に寝不足の顔を覗き込まれた。そんな甘い仕草で触れられても困る。  那生はさり気なく、神宮の手を避けた。 「平気だ。慣れてるから、神宮こそ教授の論文が大変なんじゃ……」 「それは余裕。もう殆ど完成してるからな」  何気なく体に触れてくる神宮に戸惑いながらも、それは親友としてのスキンシップだと言い聞かせ、那生は逸る鼓動を隠してドアが開かれるのを待った。 「先生、那生さん……」  頼りなげな声と同時にドアが開くと、切迫した表情の周が顔を出した。 「周君、いったい何があったんだ? こんな真夜中に連絡もらって驚いたよ」 「す、すいません、俺のアパートまでわざわざ足を運んでもらって」  恐縮する周に部屋の中を案内されると、想像もしてなかった光景に那生と神宮の足が止まった。  ワンルームの隅にあるベッドを凝視し、その上に横たわる青年を見た那生が、「え、何で」と、自然に叫んでいた。 「久禮……伊織……だよな?」  驚いている那生と神宮は顔を見合わせ、周に目を向けると、困惑と愛想笑いを混ぜたような固い顔をしている。 「説明をしろよ、周」 「そ、そうだな……。何があったんだ?」  二人の言葉で少し和らいだ表情筋になった周が、閉ざしていた唇を開いた。 「俺一人じゃ手に負えなくて。こんな時間なのに、お二人を呼び出してしまって……本当にすいません」  言葉と一緒に周が深々と頭を下げた。 「詫びるのは後でいい、話してみろ」  冷静な表情で神宮が肩に手を置くと、周がホッとしたような顔を浮かべた。 「はい……でも俺もよくわからないんです。伊織はすぐに気を失ってしまったから」 「そもそもどうしてこいつはここにいるんだ?」  神宮の質問を聞きながら、周が座ってくださいと、手でラグマットを指し示した。   「俺、今日バイトの日だったんです。それで帰りに四聖病院に寄ったんです、会えるわけないと思いながらも……」  眠る伊織を見つめながら、数時間前に起きた出来事を二人に説明を始めた。 「で、あれがそうか……」  周が全てを話し終えると、神宮が洗面所に隠すよう置いてあるクーラーボックスを見下ろした。 「はい」 「中は見た……?」  那生は周を一瞥しながら尋ねた。 「いえ、怖くて見れてません。蓋が開いた一瞬しか見て……ないです」 「これ開けるぞ」  神宮が一歩前に足を踏み出し、確認するよう周の方を見た。 「……そうだな。周君の話じゃ、伊織君はこの中身を君に知られて酷く怯えてたんだろ? 中に入ってるモノを確認して彼と話した方がいいと思う」 「もしかしたら、ただの輸血パックかもしれないしな」 「事故に遭った動物とか……」 「俺の見間違いかもしれませんし……」  三人三様の意見を口にした後、神宮が蓋に手をかけるのを、那生と周は固唾を呑んで見ていた。 「じゃ、開けるぞ」  神宮の合図で、那生と周は黙って頷いた。  部屋の明かりで、蓋の開閉部分に血痕が付着しているのが見て取れる。  黒ずんだ赤色が、中身を生々しいモノではと想像させた。  素手ではなく、タオル越しに開閉部分を持つとロックが解除された音が部屋に響く。  神宮がゆっくり蓋を持ち上げようとしたが、付着した血液が固まってしまったのか簡単には開かない。  神宮の前腕に青筋が浮くと蓋は開かれ、いち早く中身を見た神宮が手で口を押さえている。 「こ、これは……」  中を覗き込んだ神宮が溢した声、歪めた眉は、那生と周に恐怖心を抱かせるものだった。 「せ、先生、中に入ってるの何なんですか⁈」 「た、環。中身は……」  那生と周は神宮の背中にしがみつくように、中を覗こうとした。 「……俺には分からない。けど那生、お前ならわかるんじゃないか」  身構えていた那生は神宮の放ったひと言で、箱を上からゆっくりと覗き込んだ。 「あ!」  一声上げると那生は神宮の顔を見上げた。 「わかるか?」  心配げな顔の神宮へ返事の代わりに首を縦に振ると、「周君は見ない方がいいと思う」と言って、クーラーボックスの蓋を閉じた。 「那生さん、中は何が入ってたんですか? 教えてください……」  周に腕を掴まれ、体を揺らされるとそれを神宮が諭すように止めた。 「入って……いたのは、胎盤だ……。臍の緒もまだ付いていた」 「え、た、胎盤……? 胎盤ってあの赤ちゃんの——」  動揺した周が、クーラーボックスと伊織を交互に見て狼狽えている。普通の人が臓器など生で目にすることはそうそうない。周が動揺するのも仕方のないことだ。 「なあ、環。これって……」 「ああ……」  きっと神宮も同じことを考えているなと、那生は思った。  移植に使える部位でもない、胎児のためだけの尊いものが、ぞんざいに扱われている。そしてそれを伊織が持っていたことの意味を、あることに結びつけていた。 「那生、早急に考えるのはよそう」  払拭するよう頭を振る神宮を見て、那生も先走った考えを持つのは危険だと、先入観を捨てようとした。 「……伊織君は、アレを病院に持ち込もうとしてたんだよな、周君」 「は、はい……だと思います」  周がそう答えた時、ベッドの上で伊織の体が反転し、閉じていた眸と三人の目が合った。 「……ここ……は」 「伊織!」  起き上がろうとする伊織に駆け寄った周だが、誰だ? と言うような怪訝な顔をされ、悲愴な顔で、「伊織、俺のこと……覚えてないか?」と、色のない顔に訴えている。  疲弊した顔を覗き込んで聞いても、「よく……思い出せない……」と弱々しく言った伊織が、干渉を拒むように手で顔を覆ってしまった。 「伊織君、大丈夫か? どっか具合悪いとこないか?」  那生は刺激しないよう距離を保ち、伊織の様子を伺った。 「……誰ですか」  不信感を込めた目で、伊織が見返してくる。そう言えば、四聖病院で見かけたのも、スペイン料理の店で見たのも、どちらも盗み見だったから、彼にすれば那生と神宮は初対面だ。 「ごめん、いきなりで。俺は宝生病院の医者で才原那生、こっちは周君の大学の先生で神宮環だ。君が病院の前で意識を失ったから、周君が僕に連絡くれたんだよ」  柔らかい口調を意識して言ってみても、伊織の返事は、そうですか、と言うだけでまた黙りこくってしまった。 「体調平気なら、聞きたいことがあるんだけど」  詰め寄るように伊織に近づいた神宮に、敵意をのこもる目を向け、伊織が体を硬直させているのが見てわかる。 「神宮、いきなり聞かなくても──」 「遅かれ早かれ同じことだ。なあ、あのクーラーボックスに入ってるのは何だ」  直球の問いかけにたじろぐ伊織の前に、庇うよう周が立ちはだかった。 「先生、伊織は気を失ってたんですよ。もう少し休ませてやってください」  懇願する周を手で押し除け、神宮が質問を続けていく。 「あの中は『胎盤』だった。あんなモノをどっから持ってきたんだ。何に使う」  神宮の言葉で伊織の肩がピクリと反応したが、語ろうとしない唇は硬く閉じらたままだ。 「先生、お願いだからもう少し時間をください」  神宮に縋るよう渇望した周だったがそれは叶わず、「じゃ、警察に連絡する」と、厳しい口調で押し黙ったままの伊織を見下ろしている。 「け、警察!」と、一驚した周が守るように伊織の体を抱き寄せると、神宮を凝視して全力で抵抗を示めしている。  当の本人は、二人の声を聞いているのかどうかわからない、虚な目をして視線を浮遊させていた。 「久禮伊織、警察に行く前に君に聞きたいことがある。以前赤いワンピースを着た女性と食事に行かなかったか」 「先生何言ってるんですか? 今そんなこと聞かなきゃダメ——」 「周は黙ってろ」  刺すような声で一蹴された周が、瞠目して口を閉ざしてしまった。  神宮の荒ぶる声を聞くのは初めてで、でもそれは那生も同じだった。  いつも冷静で、熱くなるところをこれまで見たことはない。神宮をそうさせているのは、簡単に済まされないものが潜んでいると思っているからだろう。 「……赤い服……食事……。よく……お……ぼえてません。ぼ、僕は病院のコーディネーターとして……色んな人と会いますから」  徐々に精気を取り戻してきたのか、言葉は辿々しいが、伊織は自身のことを口にした。ただ、求めている答えが足りないんだと、神宮が更に言葉を重ねていく。 「君が会っていた女性が殺されたのは知っているだろう? 警察がそっちにも行ったはずだ」 「……来ました……。でも、僕は僕の知ってる事を話しただけ……です」  眸の焦点も定まり、慌てることなく落ち着いて話す伊織だったが、このまま堂堂巡りしていても埒が明かないと思った神宮が、徐にスマホを取り出した。 「クーラーボックスの中身は何に使うつもりだった? 話す内容によってはお前を帰すわけにはいかないけど」  神宮の質問にずっと顔を伏せていた伊織が、ゆっくりと上げて三人を見上げていた。その目はどこか、逡巡しているようにも見える。 「……あれは論文を書くために医師から頼まれた、資料のような……ものです」 「資料か……病院だから何とでも言えるよな。でもそれをどこから調達してきた? ひとりで、あんな遅い時間に」  神宮の質問に返す言葉が出ず、伊織は黙り込んでしまう。そんな伊織の様子を伺っていた那生が、洗面所に戻ると、クーラーボックスの蓋をもう一度開けた。 「これ……随分と乱暴に臍帯のところを切断してるな」  那生が中に入っている胎盤を、食い入るように見ながら言った。 「そんなことがわかるのか?」 「ああ。切り口がね、刃物を小刻みに動かして切ったのかギザギザしてる。メスで切断するともっと断面はきれいなんだよ」 「これお前が自分で切ったのか……」 「それに胎盤自体の扱いが雑だな。冷却保存液にすら入ってないし。これだとすぐ腐敗してしまう」  那生の話を聞きながら、黙秘し続ける伊織に、神宮が核心を突く言葉を口にする。 「最近……連続で妊婦が殺されてる。ニュースにもなってるから、君も知ってるだろう」  推し量れない表情のまま、口を開こうとしない伊織に神宮は話を続けた。 「被害者は全員腹部を引き裂かれて殺されていた。お前が会っていた赤いワンピースの女性も妊娠していたそうだ。妊婦ばかりが狙われて、今、目の前に『妊婦』だった痕跡がある。これは無視できないことだ。俺の言ってる意味わかるだろ? 君をこのまま帰すことが出来ないって」 「それにね、この胎盤の大きさは月齢が五ヶ月くらいなんだ。それも他の被害者と一致している」  那生は説得するよう、伊織を見つめて言った。けれど伊織の反応は鈍く、二人の言葉が響いてないように思える。 「せ、先生何が言いたいんだよ。那生さんも何を考えてんですか!」  痺れを切らした周が二人に噛み付くように訴えてくる。何がなんでも、伊織を守りたいと凄んでくる目がそれを語っていた。  だが、そんな周に構わず、神宮の言葉は続く。 「それと被害者の内の何人かが、四聖病院の患者だ。それについても警察に聞かれただろう」 『四聖』という言葉に僅かに伊織の体が反応を示した。 「このままずっと君が黙ったままなら、警察と家族に連絡するしかない。君の父親である、久禮院長に」 「ち、父に連絡するんですか!」  父と言う単語が、伊織の何かを刺激したのか、顔が恐怖に埋れていくと体は氷水を浴びたように震えだしている。 「い、伊織? どうした、大丈夫か」  顔面蒼白してガタガタ震え出す伊織が、側にいる周の腕に崩れるのを留めるよう掴んでいた。 「父親に連絡したら、何か困ることでもあるみたいだな」 「ち、父に連絡するのだけはやめて下さい。お願いですから」  さっきまでの態度から一変し、今にも泣きそうな顔を那生達に向けてきた。 「じゃ、君がそれをどうしようとしていたのかを説明してくれ。それが出来ないなら警察を呼んで親にも連絡を入れさせてもらう」  敢えて威圧するように、神宮が伊織を見据えて言った。 「せ……んせい」  心中穏やかじゃない周をよそに、戸惑う伊織から真実が語られるのを待った。  夜が全ての音を飲み込んだかのような静けさ。部屋の中では冷蔵庫のモータ音なのか、ブーンと言う音が微かに聞こえるだけ。  夜の静寂(しじま)を位置付けるこの時間、全てが鳴りをひそめてるような時を待っていると、神妙な空気を纏う伊織が口を薄く開けた。   「……話し……ます」
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