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「いお……り。無理すん……な。な?」  周が心配する声が聞こえてないかのよう、射抜くように伊織が神宮を見ている。 「僕は人殺しです……。意味もなく、ただ人を殺したくてやってきたことです。赤い服の人も僕が殺しました」 「い、伊織! 何言ってるんだよ!」  静かに話す伊織から飛び出した言葉に驚き、それを否定したい周が小さな肩を掴んで激しく揺さぶっている。 「周君。落ち着いて」  されるがままにグラグラ揺れる伊織の体を引き受けると、那生は周の腕を掴んで首を左右に振ることで思い止まらせた。 「人殺しか……。随分平然として怖いこと言うんだな」  冷静に伊織を観察しながら語る神宮の言葉の裏には、彼の話が偽りだと悟ってるように聞こえる。それは那生も同様で、彼の中で燻る思いを全て吐き出させようとしているのだと思った。 「本当です。僕は人を殺しました。なので警察に連れてって下さい、僕が犯人なんです」  父親に怯えても、警察へ行くことには動じない。そうまでして親を恐れる理由が何なのか、那生達には検討もつかない。  殺人者と言う罪と引き換えにしても、頑なに何かを隠そうとする伊織には、那生達が想像し難い真実を秘めているように思えてならなかった。 「先生、伊織は違う! 絶対そんなことが出来る奴じゃない」  涙声の周が力強く伊織を抱き締めて叫んでいる。その腕の中の顔は、覚悟をもったような光を眸に宿らせていた。 「僕は快楽のために人を殺す異常者……なんです」 「違う! お前にそんなことは無理だっ!」  全身で否定する周の肩に手を置き、那生は視線を神宮に向けると、彼に任せておけと諭すように眸で言って聞かせた。 「もし今回みたいに見つかった場合、誰かにそう言えって言われてるのか? じゃあ聞くけど、胎盤を抜き取った理由は? それも自分の歪んだ精神のせいだって言うのか?」 「そ、それは……」  自らが犯罪者だと訴える伊織の顔は、異常者とは程遠い気弱な目をしている。さっきの強気な口ぶりも本心ではない、そう思ってしまうのは、目の前の虹彩が憂いているように映って見えたからだ。  まだ十九歳の彼にどんな背景があったのかと、悍ましいことばかりを想像してしまう。 「ひつ……じ……です」  予想もしてなかった言葉を伊織が放ち、那生、神宮、周三人の目が瞬いた。 「ひ……つじって、あの動物の?」  突拍子もない言葉で那生は思わず聞き返してしまった。 「そ、そうです。殺した人はみんな『羊』なんです……殺した証拠を貢ぎものにして……ぼ、僕は……生きて……行けるんです……」  一生懸命説明する姿は、お世辞にも名演技とは言えない。  歯切れの悪い言葉や泳ぐ視線。わかりやす過ぎる嘘は那生や神宮だけでなく、周にも見抜かれている。 「もういいよ、伊織君。君は嘘をつけない」 「いえ! 本当に! 本当に僕が殺したんです……」 「君は何を隠そうとしてるんだ? いや……庇ってる?」  神宮の言葉に顔を硬らせ、震えだす伊織はまた顔を伏せてしまった。 「と、とにかく僕が殺したんです。信じてもらえないなら警察に言って自分で話します」   明らかに嘘だと知られても、何かを隠す意思を貫こうとする伊織に対し、神宮が眉を八の字にして那生を見てくる。  肩に手が置かれ、片目を瞬かせてくる。言葉はないのに、「任せた」と言われた気がした。  押してもダメなら引いてみよ——ではないが、頑なな伊織の心を先に溶かす方がいいと見込んだ神宮のウィンクなのか。   「警察に行くのは、夜が明けてからにしようか」  那生はベッドに座る伊織の横にさり気なく腰を下ろした。暗く深い闇が、黙ったままの伊織を飲み込んで行くように思え、那生は膝の上に置かれた伊織の手の上に自身の手を重ねた。 「伊織君って美人だよな。色も白くて、周君が忘れられないって気持ち分かるよ」  無反応なことは承知の上で、那生は話しを続けた。 「周君が小麦色の肌してるから、二人並ぶと君の美肌が際立つね」 「でしょ、那生さん! 伊織は昔から肌が雪のように白くて、髪も柔らかく茶色くて。よくみると瞳の色も髪と同じ色なんですよ」  周が自慢げに話すと、那生は伊織の顔に近づき、「本当、綺麗な目だ」とまじまじと見つめて言った。  那生に不信感を抱く伊織が、すぐさま目を逸らす。そうすることで、拒絶を示しているようだ。 「あれ、ここ……どうした?」  膝に置かれた伊織の手のひらに、注意して見ないと分からない程の小さな切り傷が数本あるのが目に入った。 「何でもないです……」 「いや、これ結構深いよ。ほら、これなんて最近のものだ」  傷を隠すように閉じようとする手を強引に開き、那生は創傷の痕を指で辿った。そして傷跡が左手にしかない事に気づき、それが自傷行為かもしれないと、学生の時に学んだ心理学のことを思い出した。 「伊織君ってさ、周君のことは思い出した?」  那生の問いに身構えたのは周だった。ごくりと生唾を飲み込んで、伊織の答えを待っている。 「……いえ。ただ、断片的な映像が浮かぶことがあります……それが自分の記憶かは曖昧ですけど……。思い出そうとすると、頭に靄がかかったみたいに景色がボヤけるんです」  そう言うと、伊織が苦しそうに頭を数回振っている。 「じゃ、周君に初めて出会った子供の頃のことも覚えてない?」 「はい……彼の事だけじゃなくて、子供の頃自体をあまり覚えてないんです。気付いたらいつも朝って感じで、毎日記憶が上書きされてるみたいな……」  伊織から真実を告げられ、分かりやすく肩を落とす周の背中を、神宮が気合いを入れ、周がその痛みで悶えている。そんな光景に頬を緩ませながら、那生は人の記憶がこんな風に曖昧になることに疑問を抱いていた。 「伊織くんってさ、以前に頭に怪我したとか、事故に遭ったとかはない?」  もし何かしら頭に外傷を受けたなら、それが原因で起こる一過性健忘が考えられる。外傷じゃなくても、心的外傷やストレスによって引き起こされる解離性健忘と言うことも。けれど那生の質問に伊織は、首を横に振っただけに終わった。  那生は伊織の手を取ると、もう一度手のひらの傷を注視した。  自己懲罰的な自傷行為を繰り返し、伊織は自分の中の存在意識さえも掴めることができていない、危うい状態なのかもしれないと思った。 「じゃさ、何か好きな物は? 食べ物とかテレビとか。毎日欠かさずしてることとかあったりする?」  優しく問いかけることを努めて意識する那生に、伊織の顔がゆっくりとほぐれていくのを感じる。 「……別に……ありません。でも……猫と一緒に暮らしてます……」 「猫? 伊織、猫飼ってんだ!」  伊織のことならどんな些細な事も知りたい周が、興奮して話に食いついてきた。 「へえー、俺も猫好きだな。でも今住んでる所はペット禁止だから伊織君が羨ましい」 「猫の名前はなんて言うんだ」  暫く口を閉ざしていた神宮が、伊織に視線を向け聞いてみる。 「パンセ……です」  口調はおどおどしてるものの、話す言葉が本来の『伊織』のように思えた那生は安堵すると、神宮にそっと目配せした。 「センスいい名前だな。パンセって哲学者のパスカルが残した遺著だろ? ほら、あの有名なフレーズ。何だっけな……」 「『人間は一本の考える(あし)にすぎない』です……」  ポツリと伊織が呟く。 「そう! それ。人間の考えることは、常に自己愛によって歪んでるとか、人間の『おごり』とか『理性の落とし穴』とか、身につまされる話しが書いてあったっけ」 「僕の好きな本なんです……」  神宮の言葉で心なしか眸に光が見えたような気がし、伊織に年相応の表情が垣間見えた。 「そうか、好きな本か」 「周君『(あし)』って漢字、君の苗字の『よしづ』の葦と同じだよ。もしかしてそこから猫の名前付けたのかな伊織君は」 「え! そんな! ぼ、僕、そんなの知らない——」  那生の強引な閃きに伊織の頬が高揚し、傍目からも強張った肌に血が巡って行くのを感じられた。  さっきまで人を殺したとか、警察へ行くのは平気みたいなことを言っていた青年は消え、鎧を少しずつ脱ぎ捨てている伊織に那生は胸を撫で下ろしていた。 「それが本当だったら俺嬉しいよ、伊織っ」  子供のように目を輝かせ、周が思いっきり伊織に抱きついた。 「わっ! き、君……」 「君じゃなくて『あまね』だから。分かった?」  無邪気に絡んでくる周に戸惑っていても、真っ直ぐな周の心根をぶつけられ、閉じていた伊織の心が少し開いたように思えた。  同じことを考えていたのか、那生は神宮の目と合うと、自然と口元が綻び微笑んでいた。  何かをひた隠し、何かを庇う姿。がむしゃらに秘密を守ろうと吐いた嘘。  伊織の突拍子もない告白を聞いた時から、那生と神宮にはわかってしまった。  友弥から聞いた話、奈良崎の娘の事件や赤いワンピースの女性の死因。そして被害者の中の数人が、四聖病院に受信歴がある。おまけに伊織が持っていた、摘出されたばかりの胎盤。  一連の出来事は世の中を騒がせている、妊婦殺害事件ではないかと、素人の那生達でも簡単に想像ができた。  だが、この連続殺人を、伊織はどこまで知っているのか。もし知っていたとしても、どこまで関与しているのか。そして、伊織自身が後悔——若しくは拒絶したいと思っているのではないだろうか。  なんとなくそれが伝わり、周ではないけれど、那生は彼を何とかしてあげたいと強く思った。   「そうだ、お腹空いてないか伊織君」 「えっ! えっと……お腹……ですか」  少しづつ状況を受け入れていく伊織を嬉しく思い、那生は「周君、台所借りてもいいか。ってか何か食材ってある?」と、少し浮かれて言ってしまった。 「あります、あります! 俺も手伝います」  周が勢いよく立ち上がると、那生は腕を取られ、台所へと連れて行かれた。浮かれていたのは那生だけではなく、周の方が輪をかけてはしゃいでいる。 「彼は小さい頃もあんな風だったのかな……」  伊織が周の背中を見つめながら、小声で呟いた。 「断片的な記憶はあるのか」  神宮に言われ、自然に口を突いて出た言葉に伊織自身も驚き、左右に首を振った。 「……わかりません。でも、あんな風に僕も手を取られて遊んだ……そんな夢を見たことがあった……ただ、それだけです」  周が笑う横顔を見やった後、伊織はそう言って微かに微笑みを見せた。
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