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 群青の空気に溶け込むように、唇から放たれた紫煙を神宮は溜息と一緒に吐き出した。  牽制して怯える伊織の心を自然に解した那生に、相変わらず相手の心に溶け込むことに長けていると、心底から感心していた。  高校の時から那生の、人懐っこく、無邪気で、優しくて。でもそれでいてどこか繊細で、時々わがまま。それらがちょうどいい具合にミックスされた性格を、ひとりとして悪く言う人間を神宮は見たことがない。  スモッグで星など見えない空を見上げ、神宮は懐かしい思い出に浸っていた。  高校生になって、神宮は初めて『奇跡』と言うものを味わった。  この高校に進学して本当によかったと、普段なら祈らない神を崇め奉った。  那生と離れたくなくて、大学も一緒のところを選んだのに、目指す目標が違うと、こうも会えないのかと、何度も後悔していた。 「いっそのこと。俺も医者を目指せばよかったな」  夜空にもう一度溜息を託し、那生への気持ちを自覚したの出来事を思い浮かべてみた。  あの日、教室で見た那生の高揚した顔が神宮にはたまらなく可愛く見え、それと同時に友人にも嫉妬してしまったと言うことを。  自分の思いが確信に変わり、でもそれは遅かったのかと後悔もしたあの日。  燻る煙が夜空にたなびくのを見届けるよう眺めた視線の先に、見たことのあるが目に入った。  ——ここへ来た時にはなかったよな……。  玄関を出て外の廊下にいた神宮は、三階にある周の角部屋の位置から少し移動し、死角になる場所に身を潜めた。  隙間から見下ろした先の道路にあるモノが気になり、近寄ろうとした時、玄関のドアが開く音がした。 「神宮、そろそろ入れば? 風邪ひくよ」 「那生……今——」 「ん? 何」 「——いや、何でもない。あいつら寝ちゃった?」 「ああ、うん。今ね」  さっき廊下から見下ろした先にあったモノが気になりながらも、周達を起こさないよう、神宮は静かにドアを閉めた。 「もうすぐ夜明けか……」  周の横で寝息をたてる伊織の髪を撫でながら、那生が溜息を吐いた。 「なあ、伊織君の左手のひらに傷があるんだ。多分これ自傷行為だと思う」  眠る伊織の手をそっと開け広げ、無数にある創傷の痕を見せた。 「自分で? 間違いないのか」 「多分……。彼右利きだから左にしか付けれないし、それに一番深い傷は最近のものかも」 「こいつは何をして、何に苦しんでるんだ? まだ十九やそこらで」  父親に対しての怯え、自傷行為の痕。クーラーボックスに入った胎盤。それから一連の事件のことも。  伊織が話してくれない以上、何を恐れているのかこちらにはわからない。 「自傷行為の背景には、周りに悩みを打ち明けられなくて、一人でその悩みを抱え込んでしまうってのが根っこなんだ。自己評価も低くて、親の期待に対しても現実が追いつかなかったりでさ」 「彼にもそれが当てはまってんのか?」 「不確かだけどね。自分が傷つくのは当たり前だとか思ってるのかも。それとも、自分が愛されているかどうか確かめたくて。でもそれを確認することも出来ないってまた傷付けるんだ」 「こいつの闇は深いって事か……」 「それに、神宮ここ見て」  眠る伊織の首元を指差し、那生が神妙な面持ちをした。 「何だこれは」  伊織の白いうなじに、何か文字の様なものが薄っすらと青く見えた。 「何だろう、これ。アザでもないし」 「……刻印みたいだな」 「刻印! やめろよ、そんな事言うの。まるで——」  続く言葉を飲み込み、那生が口を真一文字に結んで下を向いてしまった。 「……にしてもやっぱ那生は詳しいな。研修とかで心理学も習うのか?」 「あ、いや。それは——」  言い淀む那生が、上げかけた顔をまた伏せてしまった。 「それは……なんだ?」  那生の顔を見て、那生の言葉で聞きたいと願う神宮が重ねて尋ねてみた。 「……それは俺が、精神科の先生に誘われたからだよ。そん時は本当に精神科医を目指そうかとも思ったけど。やっぱり手に技術を付けたいと思ってね」  少しの間の後に答えたことが気になったが、今、那生に自分の中で燻る色々な思いをぶつけるのはやめた方がいい。そう自分に言い聞かせ、神宮は話をクーラーボックスの中身へ戻した。 「……それよりアレどうする」  翳をさした那生の顔を気にしつつも、神宮はクーラーボックスを指さした。 「伊織君は異常者じゃない。それだけはわかってるんだ。でも周君の話だと返り血? みたいなのが顔に付いていたって言うし」 「直接手を下してはないかもしれない。けど何らかの形で犯罪に関わっていることは間違いないだろうな」  神宮が考えあぐねいていると、真顔で一点を見つめる那生が目に入った。 「那生、お前また首突っ込もうとしてんだろ。やめとけよ、周がなんと言おうが、伊織君のことはやっぱり警察に任せた方がいい」 「でも……」 「でもも、へったくれもない。彼は殺人に加担してるかもしれないんだ。こっから先は警察に任せるんだ。あの南條ってちょっと頼りないけど、あの刑事ならきちんと話を聞いてくれるだろう。だから——」 「あ、あの……」  眠っていたはずの伊織がいつの間にかベッドから起き上がり、二人をジッと見つめている。 「ごめん、起こしたな」  返事をする代わりに、伊織が首を横に数回振った。 「……何か話があるんだろう」  神宮の言葉に、今度は迷いながら伊織が首を縦に振った。 「ここに座りな」  那生がソファの上からクッションを下ろすと、その上に座るよう示した。 「……僕、あの」 「君の話せる言葉でいい。本当のことを話してくれればいいんだから」 「ゆっくりでいい。ちゃんと聞くし」  もしかしたら、伊織は起きて二人の話しを聞いていたかもしれない。  そんなことを考えながら、神宮は膝を抱えたまま言葉を選んでいるような伊織を眺めていた。 「あのクーラーボックスの中身……、あれは僕が女の人の体から取り出したものです」   推測していたとは言え、はっきり本人から聞くとかなり耐え難い事実だった。 「……君が殺害して、胎盤を取り出したのか?」  神宮の言葉を受け止めたものの、次の言葉を紡ぐことに躊躇してるのが見て取れる。 「ぼ、僕は……こ、殺してませ……ん」 「じゃ、誰がやったんだ?」  唇を真一文字に結んでしまった伊織の背中に、那生が手を添えている。すると、闇に覆われていた眸に光が差し、伊織が瞬きひとつした後、神宮と那生を見据えた。 「あ、兄……です」 「兄? 君の兄の瑞季か?」 「知ってるんですか……あ、モデルやってるからか……」 「モデル? そう言えば聞いたかな。お兄さんのことを知ったのは、周君と一緒に君を探してた時にだよ」 「……そうです……か」 「で、その瑞季が異常犯罪者ってことなのか? それとも女性に特別な恨みとかでもあるのか?」 「異常……ある意味そうなのかも知れません」 「どう言うこと?」 「……兄は人を殺す事に何の抵抗もないんです。ある日を境に兄は変わってしまいました」 「ある日? もう少し詳しく話してくれないか」  胸の前で腕を組んだ神宮が聞くと、もう迷いのない顔つきで伊織が伏せていた睫毛を持ち上げた。 「兄は高校一年の時、スカウトされてモデルの仕事を始めました。その年の夏休みに泊まりの仕事だと言って家を開けるまでは、明るくて優しい兄でした。笑顔で二週間経ったら戻ってくると言って……」  心なしか涙声のように伊織の声が聞こえ、それに反応した那生が傷だらけの手を握り締めている。何かあっても側にいるのだと伝えているかのように。 「けれど帰って来た兄は別人になっていたんです。傲慢で乱暴で、数秒毎に性格が変貌してしまう。出かける前とはあまりにもかけ離れた、粗野な性格になってました。優しくて……賢い人で、モデルで稼いで、い、医者になるんだって言った……そんな兄は消えてしまったんです」  きれいな茶色の瞳から大粒の涙が目の端から溢れ、抱えていた膝に模様をつけていく。  嘘をついているようにも思えないし、ましてや作り話でもない。  これまでこの細い体で、必死で不可視な荷物を背負ってきたのだ。そう思うと、周じゃなくても何とかしてあげたくなる。 「性格が豹変した原因って何か知ってるのか? 伊織君は」  無言で首を左右に振り、雫がキラリと飛び散った。 「でも父が秘書と話していたのを聞いて、よくわからない事を言ってました」 「お父さん? 四聖病院の院長だね」 「はい。父は『瑞季は成功したけど、伊織は麻酔薬でアナフィラキシーが出たからダメだった』と言ってました」 「アナフィラキシー? アレルギー反応でショック死したりする、あれのことか?」  声を張って答えた神宮は、那生にシーっと人差し指で唇を押さえられた。 「神宮、周君起きるだろ」 「あ、ああ悪い。で、君にアレルギーがあったってこと? でもそれで何が違うんだ」 「多分だけど、伊織君に何かがあって、麻酔を使う治療をしないといけなかったんだ。でも投与した途端、ショック状態になった。違うかな……」 「いえ……多分、合ってます。僕が高一の時に交通事故に遭って病院に運ばれたことがありましたから」 「その時麻酔使ったのか……」  那生の問いに伊織は小さく頷いた。 「頭を打って何針か縫ったんです。その時ショック症状が出たと聞きました」 「投与されて過敏反応出たんだな」 「でもその事故後から、精神科の先生にカウンセラーを受けるよう父から指示があって。ずっと定期的に受診してたんです。そこの部分の記憶は曖昧で、昔のこともよく覚えてなくて……」  今まで誰にも話せずに過ごしてきたのだろう、助けを乞うように伝えてくる伊織の表情は、今にも泣きそうに思える。神宮は乱暴な言い方をしてしまった自分を反省した。  過去の事故後に始まった精神科のカウンセラー。そして記憶障害とアナフィラキシーに兄の変貌……バラバラのパズルを前に、神宮も那生も考え得ることを頭の中で張り巡らせていた。 「伊織君、君にこんなことをさせているのはお兄さんか?」  神宮がクーラーボックスに目を向けたまま、伊織に聞いてみた。 「い……いえ。兄じゃ——」 「じゃ、父親か」  神宮のひと言で、伊織の身体はわかりやす過ぎるぎるほどに硬直した。 「父親なんだな、君にあんな事させてるのは」  繰り返し尋ねると、伊織の体が震え出し、でもグッと奥歯を噛み締めたような顔を見せると、伊織が大きくハッキリと頷いた。 「どんな理由でも、人が人にさせていいことじゃない。ましてや親が子供にさせる……我が子の手を犯罪に染めさせるなんて……」  怒りを露わにする神宮の手の中で、テーブルに置いてあった煙草の箱が握り潰されていく。無惨に潰された箱に気付き、神宮は感情的になってしまったのを反省するかのよう、バツの悪そうな顔で箱の歪みを直した。 「僕の知ってることはこれで全部です。朝になったら警察に行きます。行ってこの話をします。だから、その……」 「大丈夫。一緒に行くから。な、神宮」 「気が変わったら困るしな」  ワザと憎まれ口のように言いながら、潰れた箱を手から落とすと、そのままの流れで伊織の頭を撫でた。 「あ……ありが……」  人間味溢れた雰囲氣を、ようやく顔いっぱいに溢れさせた伊織が、小さな子供のように泣きじゃくった。
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