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 足の拘束からは解放されたが両腕は不自由なうえ、男にしっかりと掴まれていては逃げるどころか戦うこともできない。  なす術もないまま、殺風景な長い廊下を、那生は強制的に歩かされていた。  見る限り建物の中は病院のように見える。  真新しい匂いもして、クリーム色の壁や床にも傷がない。廊下の両脇にある大きな取手が付いてる部屋は、病院でよく見る外来や処置室を思わせる。  どこへ連れて行かれるのか不安になりながらも、那生は伊織と奈良崎の行方を心配していた。  彼らを探し出す妙案が浮かばない自分が悔しい。  この先で何が起こるのか検討がつかないまま、配送用と表示されたエレベーターに押し込まれた那生は、瑞季達と一緒に上階へと運ばれた。  密室ということが、不安と恐怖を那生に植え付けてくる。エレベーターはどんどん上昇し、それに比例して那生の鼓動も早まってくる。  男の背中越しに見える階数表示は五階を示していた。  この状況では逃げることもできない。何とか退路を見つけて伊織と奈良崎を探し出しこの建物から脱出しなければ。  じゃないと、あの、瑞季と言う伊織の兄が何をしてくるかわからない。  フロアに着いて非常階段がどこにあるかを探さそう。そう考えていた矢先、到着を知らせる音がし、扉が開くと同時に那生は背中を押し出され、再び強引な男の手で歩行を促された。  ——俺も殺されるのか……。  怯える気持ちが歩く速度を弱めると、前を歩いていた瑞季が振り返り、那生は胸ぐらを掴まれた。 「さっさと歩けよ、トロいな! クズなのは伊織と同じかっ」  そう吐き捨てると、廊下の先にあったドアの前で瑞季が足を止めた。  ケヤキ材の框戸(かまちど)に鳳凰の彫刻を施したドアは、明らかに他の部屋と雰囲気が違う。頑丈そうな城廓(じょうかく)を思わせる扉は、どこか人を寄せ付けない重厚さを醸し出していた。  ノックをして中へ入る瑞季に続き、男にせっつかれた那生は部屋の真ん中へと踊るようにたたらを踏んだ。 「那生さん!」  両手が不自由でバランスが取れず、ふらつく那生に伊織が駆け寄ってきた。 「伊織君! 無事だったんだ。よかった」  怪我ひとつない状態に胸を撫で下ろし、伊織の側へ行こうとしたが、那生の体はまた男に制止された。 「久禮院長、お連れしました」  那生の腕を掴んでいる男が目を向けた先を辿ると、部屋の奥に置かれた仰々しい机の前に座る年配の男が那生を観察するよう見ていた。  ——この人が、久禮院長……。  ロマンスグレイの髪は七三に分け、鼻下と顎には短く切り揃えた白髯(はくぜん)が高級そうなスーツと相まって上品な雰囲気を作り上げている。  那生は上目遣いでこちらを見てくる眼光に怯むと、無意識に後退りしていた。  両手を組んだ状態で顎に添え、机の上に肘を付きジッと那生を見ている。口元は綻んでいるのに眼光は鋭く、蛇に睨まれた蛙とはこう言うことかと変に冷静に思ってしまった。 「君が才原先生か。昨夜は伊織が世話になったね」 「あ……あなた、久禮……院長?」  伊織の無事に安堵する間もなく、威圧するような声で久禮に問われ、足元から硬直して行くのが自分でもわかる。 「ああ、そこの愚息の親だ。それより君の方から出向いてくれるとは、今日は僥倖(ぎょうこう)に巡り合えたな」  久禮の言った言葉の意味がわからず、射すくめられたままでいると、久禮がゆっくりと立ち上がった。  伊織の父と名乗る男——。一見すると物腰の柔らかい口調でも、射抜くように那生を凝視してくる目は威圧感が半端ない。 「父さん昨夜の羊さあ、伊織がどっかにやっちゃったんだよ。どうする?」 「知っている。その責任はきちんと伊織に取ってもらう。わかってるな、伊織」  有無も言わさない空気の久禮に逆らえない伊織が、はいと、か細い声で頷いている。この短い会話の内容も、やり取りの様子も親子とは呼べない、抑圧された主従関係で成り立っている。 「それより瑞季、この先生には手を出すんじゃないぞ。この人は郷司の代わりになってもらう大切な人だ」  久禮が瑞季をひと睨みしながら、部屋の中央に置いてあるソファまで移動し、皮張りの軋む音をさせながら深々と座った。 「じゃあコイツ殺せないじゃん! つまんねー」  不気味な言葉を発する瑞季を注視しながら、那生は聞き覚えのある名前が会話に出てきたことに記憶を手繰り寄せ、一人の男の顔を浮かべた。  ——郷司って……もしかしたら……。 「……瑞季、お前は余り目立ち過ぎるな。モデルの様なくだらないこともさっさと辞めて、病院の仕事に専念して欲しいものだがな」 「はい、はい。でも父さん『羊』をおびき寄せるには都合いいんだよ、モデルは」 「……そんな方法が通用できるのは若いうちだけだ。辞める気がないなら、せいぜい今のうちに活用しておくんだな」  優しい口調とは真逆の表情で睨まれ、瑞季はさっきより少し大人しくなってしまった。彼もやはり父親には驚異を抱いているのだろうか。  そんな二人を見ようともせず、部屋の隅で怯える伊織を見ながら、那生は歪んだ親子関係に眉根を寄せていた。 「さて本題だ。才原先生、まあ座りなさい。君が私の病院で働いてもらう話をしよう。なに、いい話だ。まず、給料は今の病院の十倍を用意しよう」  唐突な久禮の発言に那生が瞠目していると、腕を掴んでいた男が那生の背中を押し、久禮の座るソファの向かい側に無理やり座らせようとしてくる。  意味の分からない久禮の言葉に追求しようとした時、背後から均質なノック音が聞こえ、ドアが開くと黒縁眼鏡をかけた男が部屋に入って来た。 「失礼します、院長。警察からお電話が……」 「堅山(かたやま)、お前で対処できなかったのか」  眉を歪ませる久禮が、スマホを受け取りながら溜息を吐く。 「もしもし、久禮です。まだ何かお話が?」  那生は今、大声を出せばスマホの向こうにいる警察に聞こえるのではと思いつき、下っ腹に力を込めて叫ぼうとした——が、堅山に那生の素振りを勘づかれ、口を手で覆われてしまった。 「父さん、警察何だって?」  数分話して電話を切った久禮の向かいに瑞季が座ると、身を乗り出して興味津々に聞いている。無邪気なその顔は、絵本を読んでもらう子供のように目を輝かせていた。 「警察がまた話を聞きたいそうだ」 「またかよ。アイツら何にも掴んでないくせに、しつこいな」  ソファに踏ん反り返る瑞季をよそに、久禮は涼しい顔で那生の方を見つめてきた。 「才原先生は警察に友達でもいるのかな」  何の表情を生まない目は、那生の全てを見透かしているように思え、背筋ゾクっとした。  もしかしたら神宮が連絡したのかも知れない。  無意識に神宮へ助けを求めてしまう気持ちと、ここに来れば危険な目に合ってしまうと言う恐れが混沌とし、そんな考えを盗み見られないよう、那生は目を固く瞑って下を向いた。
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