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「いずれにせよ早急に進めた方がよさそうだな。堅山」 「はい、もう整っております、いつでもご指示頂ければ」  堅山は笑みを浮かべ、久禮に頭を下げた。 「伊織、もしかしてお前がサツにチクったのか!」  瑞季の尋問に首を激しく左右に振り、伊織が必死で抵抗を示している。 「ま、間抜けなお前にはそんな根性も、器用さもないよな」  小馬鹿にして嘲笑う瑞季を、怯みながらも伊織が逆らうような視線を一瞬見せた。それに激昂した瑞季が、振りかざしたこぶしを伊織の腹部に思いっきりめり込ませると、更に同じ位置を殴った。 「お前の取り柄は顔だけなんだよ! 誰もお前みたいな人間は必要としてない。それを自覚しろっ」 「ううっ! に、兄さ……ん。ごめ……さい」 「やめておけ、瑞季。まだ使い道がある人間だ、そんなやつでも」 「伊織君! 君はこの子の兄だろ? なぜこんなことをするんだ」  下腹部の痛みに耐えきれず伊織は床に跪いてしまう。非情な瑞季の態度に怒りが込み上がった那生は、男の手を振り解こうとありったけの力で暴れた。 「あ、あなたは自分の息子を何だと思ってるんですか!」  自分の状況も顧みず、那生は久禮に食ってかかった。自分の息子を息子とは思わない、いやそれ以前に人としてじゃなく、まる道具のように扱う久禮に、腹の底で煮えくり返る感情をぶちまけた。 「はあ? お前、誰に言ってるのか分かって——」 「瑞季、手を出すなと言っただろう」  那生に殴り掛かろうとした瑞季が舌打ちし、矛先をソファにぶつけるよう荒々しく腰を埋めた。 「才原先生、さっきの話の続きだ。私の病院に来なさい。君にとって悪い話じゃない」  選択を委ねているように聞こえる言葉もそれは命令だ。強引に力で支配しようとする久禮に屈しないよう、那生は必死で抵抗を表情に表した。 「ど、どうして俺なんですか。あなたと初対面の俺に何故悪い話じゃないと言える」  上擦る声で久禮に強い眼差しを向ける。 「確かに君とは初対面だ。だけど知ろうと思えば容易な事。君が外科医に向いていると言う事、そして精神疾患にも長けていると言う事もね」 「な、何故……」 「そんな事は造作もない。研修医時代に精神科への誘いを断ってただろう。それに今、外科医への転科を悩んでいる。違うか?」 「ど、どうして……研修医の時のことも……」 「……君のことをそれほど買っていた人間がいる、と言うことだ」 「買っている人間? それは誰ですか」  研修医時代の時から自分のことを監視していた人間がいた? 自分は常に見張られていたと言うことなのか。  想像してゾッとした那生は、不意に今いる不気味な空間に足元から震えを感じた。 「君がなぜ内科医を選んだのかも想像がつく。男が好きな君のことだ、大病院で勤務していると、ひょんなことで性癖がバレるかもしれない。結婚しない理由も答えられない。だから怪しまれないために内科医となり、行く行くは開業でもしようと考えたんだろう」 「そ……んなことまで……」  同性愛者だと言うことまで知られていた。それも以前から自分が監視されていたと言う、紛れもない事実と思える。 「いわゆる『ハッテンバ』と言う場所に、君は一度行ったことがあるはずだ。私には理解できないが、君みたいな人間はそんな場所で相手を調達するのだろ? 君はすぐに店から出てきたそうだが、好みの男でもいなかったか」  正鵠(せいこく)を射抜くよう久禮に言い当てられ、那生は顔を真っ赤にして下を向いた。  肩を震わせ、面白おかしく語る久禮の声だけを聞きながら、馬鹿なことをしたある夜のことを思い出しながら。  久禮の言う通り、那生は一度だけそう言った類の店に行ったことがある。  神宮のことを思い出しては忘れられず、ふと、別の誰かを好きになることができたら。そしてそれが自分と同じ人種だったら、神宮を忘れることができるかも——。そんな浅はかな考えで踏み込んだゲイバー。  実際、店に行くと那生は様々なタイプの男に声をかけられた。けれど誰からの誘いにも乗ることができず、神宮への想いを再確認しただけに終わってしまった。 「今は内科医でも、君ならすぐに技術を身につけられるだろう。指導医も用意してある。是非この病院で学んで、我々に力を貸してくれ。ここなら誰の干渉もなく、マイノリティーな君でも生きやすいはずだ。それに金の使い道に困るほど稼がせてやる。これは君にとっても悪い話ではないはずだが」  さも、好条件だと言わんばかりに久禮が胸を張っている。 「……お断りします。あなた達がしていることに、どんな目的があるのか知りたくもない。だけど(おぞま)しいことだと言うのだけは分かる。そんなことに俺は加担したくない! 伊織君もそうだ。彼は俺が連れて帰ります!」  睨み付けるように久禮に向かって叫んだ。歯の根も合わず、声は震えていても、持てる全ての勇気を集め啖呵を切って見せたのだ。 「ハハハ、久禮さん手を焼いてますね。だから言ったでしょう、見た目と違ってこの子は意外と頑固なんですよ」  部屋の中にある奥のドアが開き、聴き慣れた声が那生の耳に飛び込んできた。  恐る恐る声の方に目を向けた那生は、突然現れた人物を見一驚した。 「せ、先生! 奈良崎先生、やっぱり先生だったんだっ」  くたびれたジャケット姿に変わらない優しい口調。いつもの懐かしい微笑みで奈良崎が那生の側に歩み寄って来る。 「やあ那生。君とここで会うのはもう少し後だと思っていたんだけどね、驚いたよ」 「先生、どうしてここに……。それに、今のってどう言う……意味ですか」  奈良崎の方へ駆け寄ろうとしたが、掴まれていた腕に男が更に力を入れて阻止されてしまった。 「奈良崎君の言うとおり、中々可愛い子だね」 「ええ。私の教え子の中でいちばんのお気に入りですよ」  顔色を変えないまま、奈良崎が久禮の前に座った。 「せ……先生」  不穏な感情が胸に広がり、心臓の音が激しく警鐘を鳴らしている。その音が頭の中にまで響き、動揺する那生を追い込もうとしていた。 「那生……お前は本当に素直で優しい子だよ、そんなところは昔から変わってない。ここにいることが何よりの証拠だな」 「な、何言ってるんですか先生。こいつらおかしいんだ。なのに、なぜこんな奴らと一緒にいるんですかっ」  拘束の手が緩んだ隙に奈良崎の側に駆け寄り、必死に訴え続ける那生に恩師の顔から笑顔は消え、その口は閉ざされてしまった。 「お義父さん、那生さんは関係ないんです! 僕はどうなってもいい。だから帰してあげて下さい」  下腹部に受けたダメージに抗いながら、伊織は久禮に嘆願した。 「お前は本当に間抜けだな伊織。父さんはこいつを郷司の代わりにするんだぜ」 「郷司……」  さっきも聞いたこの名前。聞き覚えがあると思ったら、前に四聖病院へオペの見学に行った時の担当医と同じ名前だ。 「那生さんを? そ、そんなことやめて下さい! それに、郷司先生はどうなるんですか!」 「アレはもう用無しだ。奴はいろいろ知り過ぎた。それに才原先生の方がお前も懐いているしな」  皮張りの独特な擦れる音をさせ、久禮が奈良崎と意味ありげな含み笑いを交わした。 「那生は素直で頭の良い生徒だったよ。過去もこれからの未来もずっと私のかわいい教え子でいて欲しいんだ、お前には」  ソファから立ち上がると奈良崎が那生へと歩み寄って来る。  差し出してきた奈良崎の手がヒヤリとして、全身に粟がたった。 「な、何をするんですか」  その手の感触に嫌悪感を感じた自分に驚き、奈良崎から逃げるよう後退りした。しかし避けようとした手を引き止められ、奈良崎に手を握り締められた。 「入学当初から那生には目をつけていたんだよ。頭もいいし素直だし。おまけに優しい性格で、一年の時の担任だった私に従順だった。なのにいつもあの男がお前と私の間にいて、もの凄く邪魔だったよ」 「な、何言ってんですか。先生……どうしたんだよ。あの男って誰のこ——」  拘束された手首を強引に引き寄せられ、奈良崎の顔が至近距離まで来ると、小さな声で耳打ちされた。 「……だが今日、神宮はいない。今日から那生は私の言う通りに生きていけばいい。高校の時と同じようにね」  人面獣心のような奈良崎を前に、那生は悲しみと恐怖で正常に意識を保つことが出来ず混乱していた。  高校の時の、同窓会で見た時の、優しくて頼りあがいのある先生とはかけ離れた、別の顔をした知らない人間が目の前で微笑んでいる。 「そ、そうだ。先生、栞里さん! 栞里さんももしかしたらこいつらの手にかかったのかもしれないんだ! だから、だから——」  やっとの思いで振り絞った言葉に対し、奈良崎がずっと我慢していたものを堪え切れないかのよう、天を仰いで笑い出した。 「そう。そうだったね、栞里か。いたなそんな名の娘が」 「せ、先生……?」  奈良崎から放たれた言葉の続きに怯え、那生の目から一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。 「見込んだ通り、やっぱり那生は頭がいい。もう理解したんだね」 「なあ、奈良崎さん、時間もあまりない。そろそろいいんじゃないかな」  久禮の一声で奈良崎がポケットから何かを取り出し、それを口に含むと意気消沈している那生の後頭部を掴み、無理やり口移しで口腔内に異物を押し込んできた。 「うっ! ううぅ」  追い討ちをかけるよう口の中に水を流し込まれ、もがき苦しんでいる那生は、強引に奈良崎から口を手で塞がれる。そうされることで、口腔内の異物が喉を通過し、体が薬の成分に押し任されてしまう。 「飲み込みなさい、那生。そうすれば次に目覚めた時は、今までの苦労も悲しみも消えて無くなってい——痛っ! くそ噛みやがった」  必死に奈良崎の手から逃れようと暴れても、両手の自由が効かず、出来ることはたかが知れていた。 「お義父さん、やめさせて下さい、お願いだ!」  含ませた薬が喉を通過する僅かな動きを確認すると、奈良崎が掴んでいた髪を離し、支えを失った那生は床に崩れるように昏倒した。 「那生さん! 那生さん!」  遠くで伊織の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。だが、那生の意識は次第に薄れ、その目は意思に反して閉じられていく……。 「昔の那生はもっと私に従順だったのにね。神宮の影響を受けたんだな、反抗的なのは。あの男はいつも見透かしたように私を見ていたからね、たかだか十代の子供だったくせに」  横たわった那生の髪を撫でながら、奈良崎は歯形の付いた指を見つめている。 「中々の見ものでしたね、奈良崎さん」 「フフ。これはこれでいい余興でしょう」  気を失った那生を見下ろしながら、奈良崎は久禮を見ると冷嘲を浮かべた。 「しかし奈良崎さん、あなたは恐ろしい人だ。実の娘の体を差し出してまでも手に入れたいとはね。そんなに新病院の事務長の椅子は魅力的ですか」 「人聞きの悪い。元はと言えばあなたの奥様のためじゃなかったですか。それがいつの間にか私利私欲に変わった、それを手助けしただけ。事務長の席はそんな私への褒美でしょう」  厭らしく口を歪ませ、今度は久禮に挑むような視線を送る。まるで自分は正しいことをしたと言わんばかりに。 「それは語弊があるな。世のため人のため……なんですがね」 「ハハハ。ものは言いようですね。……ま、あの女が不貞をはたらいてできた子など、私には汚物に過ぎない。久禮さんの言う『世のため人のため』に使っていただけたなら栞里(あの子)も本望でしょう」  二人の会話を聞いていた伊織の体は震えが止まらなかった。  久禮に育てて貰った恩があるとは言え、血で手を染めてまでバケモノに加担していたのかと思うと、狂って叫び出しそうになる。その口を両手で覆い、伊織は自分を殺したい衝動に駆られた。  こうやって涙を流すことさえも罪なんだと……。 「ここはまだ開業前とはいえ、警察から電話もあったことだし、さっそく才原先生の処置を始めましょうか。おい」  久禮が部下に目で指示をすると、男は部屋の隅から車椅子を移動させ、朦朧としている那生の体を座らせた。 「お義父さん、那生さんに何するの! お願いです、やめて下さい!」 「黙れよ伊織。お前に口出す権利なんてねーんだよ」  ソファでナイフを弄んでいた瑞季が、鋭い眼で睨み付けてくると、伊織は無言の暴力で押さえつけられ、口を閉ざしてしまった。必然的に備わってしまった、揺るがない主従関係には逆らえない。 「瑞季、余計なことを伊織がしでかさないよう、オペの前にいつもの治療をさせるよう郷司に言っておいてくれ」 「ああ、分かった。伊織、来い」 「い、いやだ! 離して! 離せ!」  嫌がる腕を強引に掴まれた伊織が、首に当たるナイフの刃先でその動きを止めた。静かになった伊織は冷嘲を浴び、瑞季に胸ぐらを掴まれると部屋から連れ出されてしまった。 「では彼を第一手術室に運んでおきます」  部下が久禮に一礼すると、車椅子の那生を引き連れ部屋を後にした。 「新病院でのファーストオペ、僕も見学させてもらいましょうか。先に行ってますよ」  そう言い残すと奈良崎は久禮に軽く手をあげ、部屋を出て行った。  一人になった久禮は背もたれに体重を預け、奈良崎が出て行ったドアを睨むよう見つめていた。そしてその表情は薄ら笑いへと変わっていった。 「新病院の事務長と言う肩書きに踊らされ、よくもまあ働いてくれる男だ」  滑稽で仕方ない様子の久禮は、一人になった部屋でほくそ笑み「馬鹿な男だ」と、奈良崎へ毒突いた  久禮は机の上のパソコンを起動させると、カメラ越しにオペ室へ向かう車椅子をモニターを見ていた。 「伊織の二の舞にならないことだけが気がかりだが……まあ、あんなことはそうそうないだろう。これからは日本だけの市場で満足せず、今度は海外の客層に広げる。失敗は許されないのだ」  監視カメラに映る画面の人間達を、まるでチェスの駒のように切り替えながら、久禮は愉快そうに口角を歪めて呟いていた。
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