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「那生さん、お久しぶりです。神宮先生も」
宝生大学のカフェで昼食をとっていた二人のもとに、晴れやかな顔をした周が歩み寄って来た。
「俺はついでか」
ぶっきらぼうに言った後、神宮が押し込むようにカレーを口に頬張っている。
「先生には、ほぼ毎日会ってるじゃないですか」
「会ってるって講義だろ。まぁ、いいけどな」
二人の何でもない会話を嬉しく思いながら、那生はおにぎりのフィルムを剥がそうとした。けれど、どうしてもとっかかりが見つけられない。奮闘していると、それを神宮に奪われ、長い指であっという間にフィルムを取り除いてくれた。
「あ……りがと。器用だな、環は」
「フィルムを剥がしただけで那生に褒められるなら、何回でもやってやるよ」
真顔で言われたセリフに、那生だけでなく、周も目を丸くした。
「……先生って、そんな甘いセリフ言う人だったんですね」
「あの、えっと……環? お前、生徒の前だってわかってる?」
「ああ、だから?」
さも当たり前のような顔をして、神宮がカレーの続きを口にした。
「やっぱり、先生は那生さん一筋なんですね。愛に性別は関係ない、俺も伊織一筋です」
陶酔するように語る周には目もくれず、神宮の眼差しは那生から離れない。
「あのさ、環。そんなに見られると穴が開く。食事が終わったなら、ちゃっちゃと珈琲飲んで、講義の準備でもしたらどうだ?」
二個目のおにぎりのフィルムを上手く外せたことにほくそ笑みながら、那生はわざとそっけない態度をとってしまった。
本当は、こうして向かい合っているだけで、幸せなくせに。
「冷たいやつだな。せっかく外来が早く終わったんだから、白衣姿の那生を堪能させてくれ」
「は、白衣って……環、お前変な趣味持ってないだろうな」
「変な? 変なって、ああ。コスプレ? いや、違うな。医者プレイか」
「ば、馬鹿! 学校でなんてこと言ってるんだ。ったく、こっちが恥ずかしい──って、周君、何笑ってるんだ」
那生と神宮のやり取りを見て、周が腹の底から笑っている。そんな彼の姿に、那生は胸を撫で下ろしていた。
「それで伊織君に会えたんだろ? 彼、元気だった?」
「はい、会えましたし、元気そうでした。顔色も良くて、飯もちゃんと食えてるみたいです」
「そっか、よかったな」
太陽のキラキラした日差しのように話をする周を見て、那生は自分の事のように嬉しく思った。
伊織は罪に問われず、家庭裁判所が伊織を保護観察に付するとした。
施設に収容することなく社会内で生活をさせながら、保護観察所の指導監督のもとで更生を図る保護処分となったのだ。
伊織のしたことは決して軽くはない。けれど全ての行為は、久禮から命令されてやったまでのこと。言わば、伊織も被害者で、脅迫罪として訴えられる立場にある。幼少期に過ごした島の施設の仄暗い背景も加味し、伊織は逆送されずにすんだのだ。
「先生にパートナーシップ制度の事を教えてもらってなかったら、処分が決まるまで俺ずっと面会に行けなかったままでした」
「二十歳の誕生日を迎えるまで時間がかからなかったのも、ラッキーだったな」
「はい。伊織の誕生日が俺より二ヶ月後だったから、それを待って速攻手続きして、やっと受理されて……。長かったですよ、家族と同じ扱いになるまでは」
噛み締めるように語る周の頭を鷲掴みし、神宮が微笑みを見せた。それを見ると、あの悪夢のような一日が嘘のように思える。
一生、記憶に残ることには違いないのだけれど……。
「伊織の保護観察処分が終わったら、養子縁組しようかと思ってます。それまで俺は勉強して、仕事に就いてあいつを支えてやりたいんです。きっと、伊織にもやりたいことがあるはずだし……」
相変わらず夏の日差しのような笑顔で、周が意気揚々に未来を語っている。それはただの夢物語ではなく、地に足をつけた未来設計なんだと言うのはしっかりと伝わってきた。
「小さな頃から思い続けてきたんだ、きっと二人で幸せになれるよ」
周の肩を軽く叩き、那生が言うと、神妙な面持ちの神宮が、周をジッと見て口を開いた。
「周、この先お前の周りで色んな事を囀る奴が出てくる。でも俺や那生はお前がどんな逆境にも立ち向かえる力がある事を知ってるんだからな。そんな声や人間には惑わされるな」
神宮が諭すように言うと、残りの珈琲を飲み干した。それに答えるよう自然と姿勢を正す周が、覚悟を持った双眸を見せてくれた。
「俺もそう思う。周君は向上心の塊で努力を惜しまない。目指すべき目標に対して強い信念があるしな」
「それにこいつのメンタルは鋼のように強固ときたもんだ」
「先生、そんな言い方だと俺が無神経な人間みたいじゃないですか。せっかく那生さんが気持ちよくしてくれたのに、水を差さないでくださいよ」
拗ねた口調で言う周は、生徒らしい表情を二人に向けた。
思えば、周は最初の出会いからそうだった。自分の気持ちに真っ直ぐで、一度決めた信念をとことん貫く。
那生は逃げてばかりいた自分を情けなく思い、周を見習ってこの先、どんな障壁にぶつかっても立ち向かって行こうと心に留めた。
「根性があるって言う事だ」
「そうそう。二人は一蓮托生なんだ。楽しい時も辛い時も共にだよ」
周に言うように、自分への言葉へ変換して言い聞かせていると、心が晴れやかになった気がする。そのせいか、自然と笑みが出ていたのか、ニコニコしている周の目と合った。
「何、周君。何で笑ってるんだ?」
那生が不思議そうに尋ねると、
「いえ、那生さんの笑い顔って浄化作用があるみたいですね。見ていると、なんだか胸をスゥーっとさせてくれます。でもその笑顔は先生がいるからなんだろーなって思ったら、自然と顔が緩んでました」
「な、何いってんだよ。俺が笑うのは周君や伊織君の幸せを願ってだよ。まあ、おまけで環の分も祈ってもいいけど」
「そうだな、祈ってもらおう。俺達の幸せな未来を」
神宮がそう言うと、いきなり肩を組まれ、な、那生と滴るような甘い声で言われた。
「だ、だから、生徒の前だっていってるだろ。自覚してください、先生」
嬉しいくせに、つい素っ気なく接すると、周の笑顔が再燃した。今度はニヤニヤと。
「お前何ニヤニヤしてんだ、悠長にしてるけどもう講義始まるんじゃないのか?」
神宮の言葉に周がスマホで時間を確認すると、「そうでした」と、リュックを手に立ち上がった。
「あ、そうだ。これ周君に返さないと」
那生はポケットから防犯ブザーを取り出し、周の手に返した。
「あ、これ先生に渡してた……」
「そう『お守り』だろ? これを伊織君が鳴らしてくれたおかげで助かったんだ」
「これ……先生達と初めて会った夜、男達に車で拉致られてから持つようにしてたんですよ」
「そうだったんだ」
「にしても、今どき成人した大学生が防犯ブザーを持ってるとは。やっぱりお前は愉快で、純粋な奴だよ」
「だって、親が東京は危険がいっぱいだから持っとけって渡されたんですよ」
真剣な顔で周が訴えると、堪えきれないように神宮が爆笑している。
「た、確かに東京は危険が溢れてるな。でも、お前の両親に感謝するよ」
冷やかすように言う神宮を尻目に、那生は今こうやって平穏に送れていることを噛み締めていた。
一人だけの力じゃ決して救えなかった伊織のこと。誰が欠けても、困難だったと思う。
最果ての地から感情だけで突っ走ってた来た周に導かれ、知ることができた真実。
那生は心から周に感謝をしていた。周に会えなかったら、もしかしたら違う形で、奈良崎の手中に落ちていたかもしれないのだ。
「もうそんなもの使う日が来ないといいな」
周の視線に答えるよう那生は笑って言った。
「……はい。もうきっとありません。もしあっても先生や那生さんのように、大切な人を俺も全力で守って見せますから」
「そっか……」
一歩間違っていたらここで向き合い笑っていれなかったかもしれない。そんな身の毛もよだつ事件のことは、きっとこの先も、ふとした瞬間に過ぎってしまうだろう。
大切な人を守る決意や伝えたい思いを口に出す勇気を、今回の事件で那生は改めて思い知った。
「周、ほら講義遅れるぞ」
神宮に時間を気付かされると、お邪魔虫は消えますと言いながら、弾む足取りで周はカフェを後にした。
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