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 発端は十日ほど前に(さかのぼ)る。その日は金曜日だった。職場での昼休み、啓子の親友である『ヨギちゃん』こと木崎(きざき)聖子(せいこ)、社内では八木(やぎ)聖子から電話があった。  この大東(だいとう)創薬研究所では通称名の使用が許可されている。だからほとんどの結婚した社員は入籍後も旧姓を名乗っているが、ヨギちゃんの場合、『八木』であろうが『木崎』であろうが関係ない。年上は役員を含めて『ヨギちゃん』、年下は去年入ったばかりの新入社員も『ヨギさん』で事足りる。  同じ会社に勤務してはいるが、ヨギちゃんが働くのは業務棟と呼ばれる別の建屋で、啓子がサブリーダーを務める『菅野(すがの)研究室』のある研究棟からは、徒歩だと軽く5分はかかる。  なにせ敷地が広大だ。そこにわずか2階建の、巨大な長方形をした平べったい鉄筋コンクリートの建造物がふたつ、どでんどでん、と並んでいる。その装飾のカケラもない外観はなんとも無骨極まりない。しかもそれが年季が入って限界まで褪せた不気味な青色とくれば、一部の近隣住民に「何か怪しげなクスリを作っているらしい」と噂されるのも(むべ)なるかな。会社案内パンフレット用の空撮写真を見て「青カビのびっしり生えたでっかい厚揚げが2枚って感じだな」と感想を述べた営業部員がいたとか。 『啓子、今日残業は?』  応答するなりヨギちゃんが問いかけた。  飲みにいけるのか、と心のなかで曜日を確認した。違う、今日は金曜日。そう考えたから覚えている。  ヨギちゃんはちょうど一年前の1月に、当時バーのオーナーマスターで、今は『レストラン・フーガ』のオーナーシェフである木崎惣治郎(そうじろう)と籍を入れた。バー時代は啓子も店の常連だったが、訪れた回数では、啓子はヨギちゃんにはるかに及ばないだろう。
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