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春爛漫
分厚い防音ガラスを開けると「春」に出会った。
柔らかな温かい日差しと花の香り。
心躍る季節、耳慣れた音が春の風に乗って奏の耳に届く。
そう、この季節にぴったりな、おそらく誰もが聞いたことがあるかの有名なヴィヴァルディの四季の中の一つ「春」だ。
それは12曲からなるヴァイオリン協奏曲の第一番。参加する全楽器で演奏するリトルネッロと、ヴァイオリンが独奏するエピソードが繰り返される。
そのエピソードのヴァイオリンで弾くパートを低いチェロの音で聞くのも趣が深い、と耳を傾けた。
低い伸びやかで心地のいいチェロの音色。
ヴァイオリン協奏曲を選曲するとは珍しいとしばらくその心地いい音に耳を傾けてから、奏は近くに置いたヴァイオリンを取り上げた。
弦の具合を確認し、一呼吸置くとリトルネッロを奏でるチェロの音に寄り添うように音を出す。
奏の音に気付いたチェロが一瞬やみ、すぐにまた音を送り出してくる。
「!」
今度は主旋律ではない。
奏のヴァイオリンに添えるような通奏低音。
小鳥の声、雪解けの小川の流れる音、風に吹かれて春を告げる雷が轟く。
嵐が去ればまた小鳥は囀り出す。鳥の声をヴァイオリンが高らかにそして華やかに表現する……それがヴィヴァルディの春だ。
弾くことが気持ちいいと純粋に思った。
もしかして今日の選曲は奏を誘い出すためのものかもしれない。
一緒に弾きたいと思ってくれていたのだろうか? 嬉しさはおのずと音に乗る。
それにしてもこんなに美しい音色を出す人間はどんな人物なのだろう。
いつも考えはそこへと巡る。
初めてこのチェロと出会ったのは二か月前のことだった。
奏はその日もこの練習室でヴァイオリンを弾いていた。
うまくいかない抑揚に苛々しながら窓を開けると、冷たい冬の空気を震わせて澄んだチェロの音が飛び込んできたのだ。
音楽科であるため様々な楽器の音がするのは日常茶飯事。
だが、その中で培った肥えた耳にもそのチェロの音は群を抜いて美しいものだった。
その音に触発されるようにヴァイオリンを奏でれば、思いがけずそのチェロが追従してくる。
だから思わず夢中でその音に寄り添った。
チェロを専攻している生徒など3学年通してもピアノやヴァイオリン専攻から見ればそういないから、見つけようと思えばすぐに見つけられる。
だがあえてそれは避けていた。
何となく、この秘密裏な関係がスリリングで神聖なもののように思えたからだ。
そして言葉を交わさなくても通う何かがあるような気がしたから。
そのチェロの音が聞こえる度に胸が躍る。ドキドキしてわくわくして、その音に寄り添えるだけで幸せな気分になれるだなんて、まるで恋してるみたいだ。
おかしいが、実際そうなのかもしれない。
奏は多分このチェロに恋をしている。
春爛漫、その音に載って淡い恋心のようなくすぐったい想いは奏でる音色へと反響する。
つくづく音楽というものにメンタルが大きな影響を与えるのだと感じずにはいられない。
奏の奏でる高いヴァイオリンの音と低いチェロの音がひとつに重なるように春の庭に響き渡った。
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