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「藤本」
ぴしゃりとした声に我に返った。
途端に無意識で弾いていた鍵盤が嫌な音をたてる。
「やる気がないならピアノに触らなくていい。不愉快だ」
「……すみません」
「どういうつもりだ? 楽譜は忘れてくる。前の時間のソルフェージュはボロボロ。……らしくないんじゃないか?」
ピアノ専攻教師である不二の咎めるような声が、最後の方だけほんの少し優しくなる。
「すみません」
奏は俯いて再度謝った。置いていた鍵盤から指を下ろす。
「謝ってもらってもな。……この世界、結果がすべてだってお前だって分かっているだろう?」
それはよく分かっているつもりだったが、非日常に起こった類とのあれこれがどうにも奏の心を乱していた。
副科で取っているピアノ教師、不二すばるはクールでスタイルがよくて、よく見ると顔がいい。よく見れば、というのはいつもぼさぼさの髪に無精髭、よれよれのシャツを着ているため男前度を下げているのだ。
演奏の時などはパリッとしたイケメンに変わるのだが、オンとオフの差が激しい。オフでもイケメンはイケメンだが、それが最近こざっぱりした感じになってきた為に女子生徒たちの間では恋人ができたのでは、などと噂されている。
だが、男である奏からしてみればそんなことはどうでもいい。推定30歳前後だが指導力もあり言うこともキツいが的確で、奏は信頼を置いていた。
元々ヴァイオリンを専攻していたらしいがピアノの指導も揺るぎない。昨年はオーケストラの指導もしていた人だ。
「何に悩んでいるのか知らないが、ヴァイオリンだけはちゃんとやれ。お前にはまだまだ頑張ってもらわないと困るからな」
「え?」
意味深な言葉に問い返すも神秘的な笑みで躱された。
その顔にやはり整っていると再認識する。もっとちゃんとすればこれはかなりモテるのではないだろうかと余計なことを考えていれば不二は目を眇めた。
「それより今はピアノだな。もっと気合い入れてチャイコフスキーを弾け。今度ぼうっとしたらただじゃおかないぞ」
「は、はいっ」
奏は慌てて背筋を伸ばすと目の前にある楽譜に集中し、改めて鍵盤に指を乗せた。
そうしてただただ無心で五線譜を追うことに集中する。
ピアノを演奏するのも嫌いではない。そう思えば楽しくなってくるから奏はやはり気分屋なのだろうと思う。
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