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「今日は、お客少ないねえ」  アルバイト先の雇い主は、軒先から雨の降りだしそうな曇り空を見上げる。航は「そうですね」と言いながら、また雨が降ったらマナを連れて遊びに行こうと計画する。  早めに店を閉めることになり、いつもより三十分早く帰路に着いた。家にある食材で晩飯は適当に済ませようと考え、航は自転車をこいで真っ直ぐに家に向かった。  最後の坂で一台の車とすれ違う。見覚えのある軽トラックに不信感が胸を打った。坂の上には自分の家しかないはずだ。これまで通りすがりの車とすれ違ったことなど一度もない。  運転席の楡元が、さっと視線を逸らすのが見えた。嫌な予感を胸に、ぽつりぽつりと降り始める雨を感じながら庭に入る。急いで自転車を停め、無意識に池の方へ駆け寄った。  池の周囲は不自然に濡れていた。まるで大きな魚が暴れた跡のように、地面がこげ茶に染まっている。ぞっと背が凍るのを感じ、人魚の名前を呼びながら池のふちに両膝をついた。  どれだけ呼びかけても水面を覗き込んでも、人魚は姿を現さなかった。  車庫の車に飛び乗り、エンジンをかけアクセルを踏み込む。坂道を下り、先ほどの軽トラックが走っていた方角へハンドルを切る。ぽつぽつと細かな雨粒がフロントガラスをノックする。見る間に激しさを増す雨はアスファルトを勢いよく叩き、行き先を白く煙らせた。未舗装の道で小石がはぜ、がたがたと車体が揺れる。楡元はどこかで人魚のことを知り、航の外出時を狙っていたに違いない。想定外に航が早く帰って来たので一目散に逃げたのだ。  人魚の肉は食べた者に不老不死の力を与える。その話を思い出して再度背筋が寒くなった。 「すみません! 楡元さんの軽トラ、こっちに来ましたか?」  合羽を着てあぜ道に立つ村人に、急ブレーキをかけて尋ねる。航の気迫に驚き顔の村民は、一方の方角を指した。小さな村から誰にも見られず脱出することは不可能だ。礼を言い、航は再びアクセルペダルを踏んだ。
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