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話はそこで終わるかと思われたが、結子の話題はすぐに移っていく。
『――ところで、そろそろちゃんと考えてくれてるかしら? あの件』
「? は…」
『"留学"のことよ。この間少しお話したでしょう?』
結子の口ぶりに見当がつかなかった蒼矢は、次いで続けられた母の声に表情を固まらせた。
『もうじき2年生も終わるでしょう。英国の大学に春から通うなら、もう準備し始めなきゃならないじゃない?』
「…!? 母さん、あの話は雑談のひとつではなかったんですか…?」
『違うわよ、本気よ? 考えておいてって言ったじゃない』
結子はさも当然のことのように、普段通りの抑揚で話し続ける。
『お友達――カレンちゃんのお母さんがK大のOBなんだけど、分野ごとの専門性も高くて、世界中から優秀な学生が集まる、いい大学だそうよ。今の学部の研究を続けたいなら、近い学部もあるからきっと見識が広がるわよ。T大の姉妹校だから手続きはスムーズに進むと思うし、お友達は今も在学中お世話になった教授とお付き合いがあるみたいだから、ある程度口利きもしてもらえるわ』
「…! あ、あの…」
『私の今のお家からのアクセスもいいのよ。でも、ステイ先の心配はないけど諸々の準備はたくさんあるから…あと数か月あるけど、あっという間よ。T大の手続きはあなたにお任せするしかないけど、こちらの大学生活のこととか、相談したいことがあればなんでも言って。お母さんがお友達に聞いてあげるわ』
「母さん、俺は――」
想定外の話題に焦った蒼矢は、矢継ぎ早に話を進めていく母を止めようとするが、結子は再びふとトーンを落とす。
『蒼矢、私はあなたの中にある可能性を、生涯日本だけで終わらせて欲しくないの』
沈黙する蒼矢へ、結子はゆっくり諭すように続けた。
『私があなたに語学力を身につけさせたのは、将来働くようになった時に、国を選ばずあなたの才気を活かせるようにしたかったからよ。海外の大学で得られる教養やひととの交流は、必ずこの先のあなたの糧になるわ』
「……」
『年単位の留学なんて、学生の内にしかまともにできるものじゃない。…社会人になってしまったら、わずかでもキャリアを犠牲にしなければならなくなるのよ』
黙ったまま聞く息子へ、母は優しく語りかけた。
『…あなたがまだ小さい時に家を飛び出して英国へ移住して、あなたを静矢さんに任せて、家を放ったらかしにしてしまったわね。本当に申し訳ないことをしたと思ってるわ。…同時に、私をこれまで自由にさせてくれて、心から感謝してるの』
「…母さん…」
『これからはあなたの母親として、もう一度一緒に暮らしたいの。大丈夫よ、私今の仕事先近いし、出張もほとんどないし、お家で過ごす時間もたっぷり取れるようになってるの。…あなたを独りにはしないわ』
「……?」
かすかな会話声を聞き、ようやく目覚めた烈がベッドの上で身をよじる。
「……蒼矢…?」
『英国でお母さんと暮らしましょう、蒼矢』
スマホを耳にあて、表情を固めたまま蒼矢はベッドへと振り返り、上半身を起きあがらせた烈と視線を交差させた。
ー終ー
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