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悠人と智哉
「疲れた……」
ソファに身体を預けるとすぐ、ため息とともにそんな声が漏れてしまう。
悠人(はると)は少し目に掛かりだした前髪をかき上げ、目をつむった。
以前、一回り以上年上の上司がそう呟くのを見ては、おじさんくさくて嫌だなぁなんて思っていたのに。ものの数年で自分がそうなってしまったのだから、月日の流れというのは恐ろしい。
「ん……」
柔らかい合皮のソファは、ぐっと深く沈み込むせいで次に何かしようという意欲を削いでしまう。ただそれを抜きにしても、今日はそのままソファに飲み込まれそうなぐらい、身体が重い気がする。
もしや、と本棚の上を見る。そこにあるのは正月に取引先からもらった卓上カレンダーで、ああそうか、と不調の原因にすぐ思い至った。
「もうそんな時期なのか」
時の経つ速さにまたしても歳を感じたが、ため息は出なかった。
もはや二十年以上の付き合いになるのに、今更ショックもなにもないだろう――またヒートが巡ってきた、というだけなのだから。
一度意識すると、なおさら身体が重だるく感じてくる。悠人は完全にソファと一体化する前に何とか身体を叱咤して起き上がると、皺になりかけたジャケットをハンガーに掛け、台所へと向かった。
築三十年以上経っている安アパート、ほとんど料理を作らない身からすれば特に不満もない、簡素な建付けの食器棚から小瓶を二つ、取り出す。
何の変哲もない白い錠剤に見えるそれは、決して誤飲が起きないよう、抑制剤共通の印字がされている。それを手のひらに三錠乗せ、口に含む。そして、もう一つの瓶に入っているのは避妊薬だが、悠人はしばらく手にした瓶を見つめた後、そのまま棚へと戻して、グラスの水をあおった。
パートナーがいれば当然必須、いなくても万が一に備えて服用すべきそれを、悠人は基本、スキップしている。飲むと多少気持ち悪くなるから、というのも無いわけではないが……それが一番の原因ではなかった。
「……ッ」
首の後ろ、うなじの部分がぞわりとして、思わず唇を噛む。
ワイシャツに隠れたそこにあるのは、赤黒い噛み痕。古いその傷は、一般にはつがいがいるという目印だが、悠人の場合はそうではなかった。
つがいが「いる」のではない。「いた」、というだけだった。
それでも……もう二度と、そこから誰かを誘うフェロモンを漂わせることはない。
「うう……まずいな」
吐き出す息が熱くなり、悠人はシンクの縁に手を付く。
せめてもう少し周期が安定していればと思わなくもないが、家でこうなったのはまだ良かった。緊急の抑制剤も常に持ち歩いてはいるが、注射器型で使い勝手は悪いし、何より、副作用が通常の錠剤タイプの比ではない。
そして、決して周りにフェロモンを撒き散らすことはないにせよ、こんな状態で仕事なんかできるわけがない。
なぜなら、今はアルファの「彼」がいるのだ。
(せっかくならこうなることも無くなればよかったのに)
今まで何度も心の中で繰り返した不満をまた漏らしながら、悠人はとにかくシャワーだけは浴びようと、よろよろと風呂場へと向かったのだった。
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