幸福な引越

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 こんにちは、お姉さん。本日こちらに引っ越してきた者です――あ、つまらないものですが、よろしければどうぞ。えぇ、急な訪問で驚かせてしまいましたね、申し訳ございません。こういったことは、できるだけ早いほうが都合が良いかと思いまして。今日は、お休みですか? そうですか、では――お近づきの印に、ほんの少し世間話などいかがでしょうか?  良いマンションですよね、ここ。程よく駅に近くて食品量販店へのアクセスも近い。階層も高くて、天上の星々と地上の星々をいっぺんに眺めることができる。セキュリティもしっかりしてますよね。網膜認証なんて、初めて経験しました。どんなふうなのか少々ワクワクしたんですけど、思いの外あっけなくて拍子抜けしましたよ。部屋も随分と広々としていて、一人で過ごすにはもったいないくらいです。コレで家賃が、えぇと……あぁ、そうですね、それくらいでした。  私事をつらつらと語るのも大変恐縮なのですが……ここに引っ越してくる以前は、それはそれは酷いものでしたよ。以前住んでいた所は、本当になにもない場所でした。褒められる点があるとすれば、備え付けられた寝具がとてもフカフカで温かだったこと位でしょうかね。見渡す限りに代わり映えのない、色の抜け落ちた、例えるならアクアリウムの熱帯魚の気分でした。ただただ、決められた生活を繰り返すだけの場所です。ただの牢獄でした。  街行く人々をぼんやりと眺めつつ、与えられる食事を嚥下し、決められた課題をできうる限り卒なくこなし、千切り取られた仮初の自由を謳歌しては、巣箱に戻り眠りにつく。そんな余りにも下らない、愚にも付かない繰り返しの中で、一つだけ楽しみにしていたことがありました。訪問者です。とても、素敵な女性でした。ふわりと微笑む姿は、梅雨を晴らす夏風に体を揺する白百合のようで、柔らかな声は森に佇む竪琴の調べのように涼やかでした。  僕は、その女性に惹かれました。彼女は毎週の土曜日、決まった時間に来訪しました。その週に起きたこと、自分が感じたこと、相手に思ったこと、そんな取り止めない日々の記憶を、一粒一粒丁寧に共有してくれました。僕は、その時間がたまらなく大好きでした。楽しそうに、不満そうに、悲しそうに、幸せそうに、6面パズルの様にからからと変わる彼女を見るのを愛おしく感じました。  異変が起きたのは、とある週でした。土曜日のいつもの時間。僕は小躍りを始める心を沈めて訪問者を待ちましたが、ついぞ彼女の来訪はありませんでした。次も、その次も、また、次も。はじめは落胆でしたが、次第に焦燥へと変わりました。もしかすると、彼女の身になにかあったのではないだろうか、と。居ても立っても居られない心持ちでしたが、私は囚われた虫かごの蝶も同然。自由に外界へと飛び出すことすらままなりません。  苦悩に苛まれ、胃痛に藻掻き、次第に心根が絶望で蒼く染まり始めた時、彼は訪れました。彼は自身を引越し業者だと名乗り、僕の引っ越しを提案してきました。勿論、最初は断りました。目深にフードを被って顔色は伺えず、浅黒い異人の肌を持つ、非常に胡散臭い男でしたから。  しかし、彼は僕の持つ苦しみを次々と言い当て、その全てにおける解決策もまた、次々と提示してきました。そのどれもが、魅力的でした。今の僕には決して手にすることが叶わない全て。自由。金。愛。生。その、全てが。この引っ越しで手に入るぞ、と。    ――ん? あぁ、すみません。やはり、私事をべらべらと語りすぎましたね。久方ぶりにその声を聞けた事があまりにも――――っと、なんでもありません。  そうだ、最後に一つお伺いしてもよろしいですか? なんとも珍しい金属でできた箱を見たことはありませんか? そう、ですか。ありませんか。あぁ、すみません、妙なことを聞いてしまいましたね。忘れてください。もう少ししっかりと探してみることにしますから。  ――え? あぁ、はい。まぁ、当然ですよね……ははっ。  そうだな……僕は一言も、『部屋を』引っ越したとは言ってませんよ。
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