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ミンミンジュワジュワとセミ達のクソデカセックスアピールを耳障りだと思いながら、俺は一人、重たくて大きいリュックの重量と茹で上がりそうな程の蒸し暑さに喘ぎつつ、歩を進める。
右手に畑、左手に山。歩く道はボロい車道。どこからどう見てもド田舎そのものだ。
こんな所に来ているのには理由がある。叔母に会いに来たのだ。
まるでシャワーを浴びた後みたいに汗だくになりながらようやく叔母の家に辿り着いた俺は、二、三度深呼吸してから、疲労と緊張で震える手でチャイムを鳴らす。心臓が破裂しそうな程激しく鼓動し、喉の奥に張り付くような乾きを覚えた。
数拍置いて、音質の悪いインターホンから男の声が「誰じゃ」と不機嫌そうに問いかけてきた。
「せっ、先日ご連絡しました、希です。あの、叔母さんは……」
「ああ、お前が。ハァ……少し待ってろ」
ブツリとインターホンが途切れて、見た目からして年季が入っている叔母の一軒家は防音機能が低いらしく、家の中から男が叔母を呼ぶ声がした。俺と話していた時とは違い、甘えるような声色だった。
少しすると、玄関のドアが開き、初めて会う叔母がぎこちない笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「ええと、どうも。川守民子です。遠い所ご苦労様。外、暑いだろうから入って」
「あ、ハイ……」
「あー……その、かなり暑かったし、汗かいて気持ち悪くないかな。先にシャワーでも浴びてくる? それとも、冷房の効いた部屋で冷えた烏龍茶でも飲む?」
気まずい空気だったが、それでも叔母は俺を気遣ってくれているらしい。ぎこちない笑みは、単に俺との距離感を測りかねているだけのようだった。
叔母と甥という関係なのに、十八歳の高校三年生になってようやく初対面なのだから、仕方ないと言えばそうなのだが。
「お言葉に甘えて、シャワーを借りてもいいですか?」
「うん。シャンプーは適当に使ってね。そうだ、着替えだけ出してくれたら、残りの荷物は部屋に運んでおくよ」
「そ、そのくらい自分でやります!」
「いいよいいよ、疲れてるだろうから。それにほら、うちには男手があるから」
申し訳無く思ったけれど、俺は素直にお言葉に甘えて、着替えだけ取り出して脱衣所に入った。
ささっとシャワーを浴びて着替えて、廊下に出る。
どっちがリビングなんだろうと少し戸惑っていたら、風呂から上がったことに気付いたらしい叔母さんが「烏の行水だねぇ」なんて言いながらやって来て、案内してくれた。
リビングのテーブルには個包装の煎餅やチョコが盛られた籠と、二人分のコースターが置かれていた。風呂に入っている間に用意してくれていたのだろうか。
「そういえば、ええと……なんていう名前だったっけ」
「希です。明望希」
そう名乗った瞬間、叔母さんは一瞬、目を見開いた。何かに驚いた様子だったけれど、「今お茶持ってくるね」とすぐに背を向けてしまったので、気のせいだったかもしれない。お茶を持って来た時には変な様子はなかった。
「それで、ええと……ノゾミくん、だったね。家出するのも大胆だけど、よく私の連絡先なんて知ってたね」
「母さんとばあちゃんが……その、話しているのを聞いて」
現実を見れない社会不適合者だと、母さんとばあちゃんは言っていた。それより酷い言葉も、たくさん。
何かを察したのか、叔母さんは眉をひそめた。
「まあ、あんな家、出て正解だよ。高校を卒業してないのに、こんな遠くまで家出してくる無謀さはいかんけどね」
自分でも思っていた事を指摘されて、俯いてしまう。だけど、感情任せに怒ってくるんじゃなくて、淡々と事実だけを述べるように落ち着いて話しているから、思ったより動揺せずに済んだ。
叔母さんが籠から煎餅を一つ取って、袋越しに叩いて割ってから封を切って食べ始める。俺も小腹が空いていたので、チョコ菓子をまとめて三つ掴んで自分の前に置いて、そのうちの一つをいただいた。
「あの、叔母さんって小説家なんですよね?」
「そうだね。ネット小説からの成り上がりだけど」
「昔すごく流行った、賽之目探偵事務所シリーズの作者さんなんですよね!」
「よく知ってるねぇ……」
頭をガシガシと掻きながら、叔母さんは照れたように呟く。
俺は回り出した口の勢いのままに、本題に入ることにした。
「それで俺、叔母さん……ううん、常磐先生に憧れて、小説家になりたいって思ったんです! でも、それを家族に言ったら大反対されて……」
「そりゃそうよ。あの家でなくても普通は反対されるよ。親としては世間一般の、出社して職場で働くような安定した職について欲しいって思うもんだよ」
「それでも俺、諦められないんです!」
「じゃあ、何か書いた作品はある?」
「え? いや、途中のとか、プロットだけのならあるけど……」
「途中って何万字くらい?」
「……三〇〇〇字くらい……」
正式に言えば、もうちょっと書いているとは思う。
だけど、描写が全然書けなくて、台詞ばかりの状態だ。描写での溶接が必要な部分を含めれば倍くらいにはなると思うけど、ちゃんと書けている部分となると、そのくらいだ。
叔母さんは少し考えた後、特に呆れるでもなく続ける。てっきり口だけだと呆れられると思っていた。
「夏休みっていつまで?」
「俺んとこは八月末までです」
「じゃあ一月後、八月二十五日までに三万字以上の小説を完結させなさい」
「ええっ!?」
「それまではこの家に居ていいけど、出来なかったらスッパリ諦めて家に……は、さすがに酷か。独り立ちの支援はするから就職活動しなさい」
「そんな!」
「本来小説家ってのはね、世間一般的な社会人に擬態しきれなかった、絵も描けないセンスも無い、それでも創作に取り憑かれて逃れられない奴が、最後の悪あがきで蜘蛛の糸に縋り付いて、運良く千切れずに雲の上まで登れた結果なれるもんなんだよ」
「でも叔母さんは小説家になれてるじゃないか!」
「私ゃ運良くカンダタになれただけだ。憧れだけで宝くじを当てるより低い確率を狙うもんじゃないよ。本気だって言うんなら、作品で示しなさい」
厳しい条件と正論に、反論したいのに言葉が出ない。
分かっている。叔母さんの言葉は正しい。
俺が抱いている小説家という夢は、高校生の俺にとっては雲を掴むような話で、明確な輪郭を持ったイメージは無い。ただ、人とは違う「特別」に惹かれてしまっているだけと言われても、否定は出来ないだろう。
何も言わなくなってしまった俺に、先程までベテラン刑事のようにどっしりと構えていた叔母さんは、急に慌てたように視線を彷徨わせる。「やっべ、言い過ぎた……?」と小さくボヤく声が聞こえた。
「え、えーっとね、二階の一番奥の右側の部屋さ、私の書斎なんだ。そこに創作に役立つと思う本がたくさんあるから、自由に使ってね。そうだ、真面目な話はこの辺にしといてさ、一回見て来たら良いんじゃない? 始めて来る家なんだし、色々探検してきたらどうかな」
「なんか、すみません……」
「気にしなくて良いって。あ、君の部屋は二階に上ってすぐの所ね。布団と机と座布団くらいならあるけど、何か必要な物があったら言ってね」
叔母さんはそう言って、話を切り上げて食べた煎餅の包装をゴミ箱に捨てて、自分の分のコップを片手に、台所へ去って行った。
一人残された俺は、自分が取ったチョコを食べて、烏龍茶を飲み干して、立ち上がる。叔母さんの言っていたように、書斎を見に行こうと思ったのだ。
二階に上がり、一番奥の右側の部屋。叔母さんの書斎に足を踏み入れる。古い本の匂いと、古い他人の家の匂いが混ざって、何となく、俺の年代では感じるはずの無いノルスタジーを感じた。
専門書のような本から、コンビニでたまに売られているようなファンタジーネタをまとめた本、それに図鑑や、様々な小説。色んな種類の本があって、小さな図書館のようだった。
色々と気になる本を物色していた、その時だった。
ぱたり、と机から音が聞こえて、振り返る。どうやら机上ラックのブックスタンドがずれて、本が倒れたようだ。机の上にあるからてっきり参考書みたいなものかと思っていたけど、その表紙はライトノベルっぽいデザインだ。
興味を持った俺は、その本を手に取る。タイトルは「勇者は世界を救うもの」だ。
「これって……前にインタビュー記事で見たことがある。叔母さんが影響を受けたって言ってたやつだ」
元々はゲームだったらしいけど、小説版もあったらしい。
俺の家ではゲームは出来なかったし、小説版の存在は今知ったので、内容はわからない。だけど、叔母さんが好きな作品なのだから、きっと面白い作品に違いない。
そう思った俺は、本の表紙をめくり――。
本から飛び出した光の奔流に俺は飲み込まれ、俺は意識を失った。
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