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目が覚めると、深い森の中に居た。
木々の隙間で小鳥が歌う声が耳に届き、視界には咲き乱れる花がそよ風に揺れている光景が目に入る。周囲は木々が密集しているが、この花畑は木が生えておらず開けていて、綺麗な青空が見えた。
目の前には見渡す限りの草木と花、時々キノコ。頬をつねってみたが、残念ながらこの状況は変わらなかった。
何より、鼻腔をくすぐる森の中独特の湿っぽい土と草木の匂いと、露でしっとりと濡れ始めている自身の服や手の感覚は、間違えようもなく現実のものだった。
「うっそだろ……」
思わず声に出してぼやく。
よく見てみたら、Tシャツ短パン姿だったはずなのに、何やら学ランをファンタジーアレンジしたような格好をしていた。
この格好、見た事がある。「勇者は世界を救うもの」の男主人公の格好だ。
ということは、もしかして……俺は「勇者は世界を救うもの」の世界に、異世界転生したのかもしれない。
あまりの展開に困惑するしかない。異世界系のネット小説の展開でありがちな状況に、自分の頬をつねってみる。
普通に痛い。もっと頭が混乱してきた。
もう一度自分の頬をつねってみる。相変わらず痛い。嫌な汗が出てきた。
もしかしたらこれは、本当に、現実なのかもしれない。
「嘘だろ……」
もう一度ぼやいてしまう。
どう考えてみても、自分が今体験している空気は、温度は、匂いは、本物としか思えない。
そして、もしこれが現実だとしたら――こんなことになっている原因は、きっとあの「勇者は世界を救うもの」という本だ。
あの作品を実際読んだり、元のゲームをプレイした事は無いが、剣と魔法の王道ファンタジーだという事はくらいは知っている。
だとすると、こんな丸腰で、しかもたった一人の状況は危険すぎる。魔物にやられてお陀仏、なんて展開が見え見えだ。
とにかく、早く近くの町に出て、安全を確保して、それから――
――グオオオォォォォォォン……!
……何だ、今の咆哮は。
聞いたこともない獣の声に、ぞわりと総毛立つ。
恐る恐る雄叫びのした空を見てみると、そこには見たこともない、巨大な生き物がいた。
それは上空から俺の姿を見つけると、すぐさま花畑へ降り立つ。
太い四肢の先から伸びる黒く鋭い爪。人間なんて丸呑みできそうな大きさを誇る体躯。その大きな体よりも大きな翼。口の端から覗くいくつもの牙。
――ドラゴン。
そう呼称するに相応しい存在が、自分を食料にしようと見据えていた。
ドラゴンは今にも襲いかからんと口から涎を垂らし、獣臭い息を荒く吐き、どこから食おうか品定めしているようだった。グルグルと低く唸りながら、ずしり、と地を揺らし花を踏みにじりながら近づいてくる。
どうやら、いよいよ俺にかぶりつく場所を決めたらしい。ガチガチと歯を鳴らし威嚇を始めた。歯がこすれる度に火花がパチパチと音を立てる。炎でも吐くつもりなのだろうか。
こんなの、勝てるわけがない。
例え今の俺にチート能力があったとしても、俺自身の度胸が追い付いていない。
腹を空かせたヒグマの前に何の装備も無くポンと置かれて、平常心で居られる一般人なんてそうそういない。ドラゴンはヒグマよりよっぽどやばいけど。
しかし、逃げたら食われる、逃げなくても食われる、そして逃げ出そうとしても絶対に逃げ切れないと確信してしまう。
重力を感じさせない軽やかな足取りからして、小走りする程度ですくに追いつかれてしまうだろうし、ここは障害物のない花畑のど真ん中。入り組んだ迷路のような森の中へ逃げ込むにはかなり距離がある。
――これ、死ぬ。
死を覚悟した、その時だった。
不意に、背後から誰かが走ってくる足音が聞こえた。
「――輝け天枢、死を司る七つの星」
謎の一文を唱え終わると同時に、外套のフードを目深に被った男が俺の前に立った。
そして――。
「穿て七星剣!」
術名か何かだろうか、厨二臭さを感じる台詞を言い切った瞬間、七つの白い閃光が虚空に直線を描き、吸い込まれるようにドラゴンの頭部や胸、翼を貫く。
数秒ほど時が止まったように静寂が訪れる。が、ドラゴンの体がぐらりと揺れ、地に伏したと同時に音が戻ってきた。重い音を立てて倒れたドラゴンが起き上がることは無く、ただ静かに、赤黒い血で花畑を染めていた。
そんな光景を見ていた俺は、どこか薄ぼんやりとした頭で「ああ、これがファンタジーか。すげー」と他人事のように考えていた。
ドラゴンが倒れたことをようやくちゃんと認識した俺は、安堵したせいか、腰を抜かしてその場に尻もちをついてしまった。柔らかな草花がクッションになってくれたとはいえ、痛いものは痛い。じんわりと鈍痛が尻に響いた。
「……そこのお前」
外套の男が振り返り、俺に声をかけてきた。急に話しかけてくるものだから、驚いて大袈裟なくらいビクリと体が跳ねてしまった。
振り返った男の顔はフードの陰に隠れて口元くらいしか見えなかった。フードから見え隠れする髪は黒髪で、親近感が湧いたが、日本人らしい黒髪というよりは、カラスの羽のような青みがかった黒だった。
身長は170cmちょいくらいだろうか。俺と同じくらいの背丈だ。背丈だけで判断するなら同い年くらいかもしれないが、ローテンションで淡々と語る声色のせいで、もっと年上のようにも思えた。
「この森を抜けてすぐのところに、バラットという都市がある。もうすぐこの場に男女の二人組が来るはずだから、その二人に頼んで、その町に向かうといい」
「は、い? ええと、それってどういう……」
「いいから言う通りにしろ。それと、町に着いた後は……大方、あいつが世話を焼いてくれるはずだ」
男はそう言うと、足早に森の奥へと歩を進める。
「あっ……ちょ、ちょっと待って!」
思わず声をかける。男は振り向かないものの、足を止めてくれた。
何故呼び止めたのか、自分でもわからない。
何で予言じみたことを言ったのかとか、どうやってそれを知ったのかとか、どうして俺を助けたのかとか、色々知りたいことがあったからなのかもしれない。
ただ、その前に、彼には一言言わなければならない言葉があった。
「えっと、その……助けてくれてありがとう」
「……結果的に助けた形になっただけだ。礼なんていらない」
ぶっきらぼうな返答に言葉が詰まる。これが女の子相手なら「きっとツンデレなんだろうな」と脳内補正をかけられるが、男が相手だと補正がかけられない。そんな考えの俺に追い打ちが来る。
「次はこうなる前に、どんな相手でも戦えるように度胸を鍛えておくんだな」
「うぐっ……!」
ぐさり、と言葉のナイフが突き刺さる。
仕方ないじゃないか。俺はただの高校生だぞ。あんなのと戦えるわけないじゃないか!
結局男は振り返らないまま、森の奥へと姿を消してしまった。
暗がりに消える男の姿を見送った後、ちらりともう動かないドラゴンを見やる。空いた穴からどくどくと赤黒い血を流している。大量の血に少しだけ背筋が冷える。グロい。
こういう時、狩りゲーなら素材をはぎ取るものだが、あの男はドラゴンに触れようとすらしなかった。
思えば、通りすがりに襲われている人を助ける為に倒そうと思えるような相手でもないだろうに、あの男は俺を助けてくれた。一撃で倒されている辺り、もしかしたら見た目の割に弱かったのかもしれないが、今はもう知る術はない。
俺はあの男の言っていた通り、もうすぐここに来るであろう人物を待つことにした。
……ドラゴンの死体と共に。
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