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幼なじみである安齋 湊とは、1番近所にある小さな公園で待ち合わせをしていた。光を失いグレーになった信号機の下をくぐって、道路の脇にある、ふたつのビルに挟まれた公園の入口まで行くと、湊は先に来ていたようで僕にきづいて手を振った。僕は何となく彼から目を逸らして「よう」と手を振り返す。
「今日は晴れていてよかった」と湊は言った。空を仰ぐと、真っ暗な夜空に点々と星が瞬いていて、重なった星光が群青色のグラデーションを描いていた。ふと、風に吹かれて枝葉同士が擦れる音が僕の耳に通る。僕が家から出た時には、既に風は吹いていたのだろうけど、そういう細かいところに気がつくのは、決まって今みたいにぼうっと何かを眺めている時だった。
「この感じ、懐かしいよな」と、隣に立つ湊は言う。彼は、目を瞑りながら大きな深呼吸をしていた。
「そうかな」と、僕は素っ気なく返した。「昔はずっとうるさかった気がする」
僕が言うと、湊は口角をあげてこちらに視線を移した。
「小学生の頃だな。あの時は掃除に来てた徹君んちのおじさんと毎日戦ってた」
そう、と僕達は懐かしみながら、自分達の武勇伝を反芻した。おじさんが枯葉を一箇所に集めても、僕達が木にボールを蹴り込むから、いつまで経ってもおじさんの仕事が終わらなかったのだ。おじさんはそれに対して顔を真っ赤にして怒っていた。だけど、当時はボール遊び禁止の看板も立っていなかったし、僕達にも正当性はあったと思う。ただ一つ悪びれる点があるとすれば、おじさんが仕事をやり切った表情に変わるのを見計らって、ボールを蹴っていたことだろう。──あれから随分と時が経つが、公園にはすっかり枯葉が積もっていた。
「そろそろ行こうか。明日が来てしまうよ」
湊がそう僕を促すと、僕達は時間の流れに急かされるように歩きはじめた。二人で並んで歩いてから気がついたが、湊はゴム底のスニーカーを履いてきていたようで、コンクリートの地面には僕の履く革靴の底がぶつかる音だけが響いていた。
しばらく歩けば、積み木みたいに角張った街からは外れ、緑が生い茂る山の麓へと差し掛かる。その鬱蒼とした自然の中に不釣合いな鉄のフェンスを超えた先に、僕達のとっておきの場所があった。
まるで、チェスのルークのような形をした展望台だ。その内側にある螺旋階段を登っていくと、てっぺんからは、周りに広がる新緑や、ここら一帯の地表の畝、地平線に見える街のビル群などが一望できた。
僕はここから見える景色が好きだった。まるで、お爺ちゃんの家に置いてあるジオラマを眺めている時のようなワクワク感が味わえるからだ。壮大な景色の全てが、小さな手のひらに収まってしまいそうな非現実感も、何度来たって色褪せない。隣にいる湊も、展望台の柵から身を乗り出し、俯瞰で見える情景に瞳を輝かせていた。
「俺さ、昔はこの場所が怖かったんだ」
視線を外に向けたまま、湊が言う。
「なんで?」と僕は目を丸くさせて、単純な疑問を投げかけた。昔から何度も彼と訪れた場所だから、てっきり彼もここが好きだと思い込んでいたのだ。
「小さい頃はさ、今より余計に景色が遠く感じて、綺麗だなって思うより先に目がくらくらしてた」
「ああ」と僕は頷く。
少しわかる気がする。背が小さかった頃は、世界の尺度が広く感じたものだ。今、昔の通学路を通ってみると、思ったより道が狭くて驚いたりすることがあった。湊の言う通り、ここからの景色も随分狭くなったように見える。──もしかすると、世界の方が縮んでいるんじゃないだろうか。と、僕は思った。僕達人間が、土を蹴って歩くから、地球はどんどん削れていってるのかもしれない。そして、最後には月くらいの大きさになって、そうすれば国境も無くなって、今よりも平和になるのだろうか。それとも、小さくなったジオラマの地球をも、我々人類は奪い合うのだろうか。珍しい玩具を取り合う子供の喧嘩みたいで、少し面白いかもしれないと、僕は思わず空想の中で笑みを零した。
「なんで笑ってるの?」と、湊はこちらに興味を向けてくる。
「なんでも」と返すと、湊は怪訝に顔を歪めながら「けちじゃん」と言った。僕はまた笑った。
しばらくして、僕は冷たい風が通り抜けるのを感じた。時間をかけて繁茂した草木たちが揺れ、波音のような心地の良い音をたてていた。──明日には、このとっておきの場所も、全て無くなってしまうのか。昔よりも狭く感じていたはずの景色が、また遠くなっていく。眼前に広がる風景は水を零したように滲んでいた。僕達は二人して、今見えてるものを虹彩に焼き付けるように、じっとその場から動かなかった。まばたきも、時間が流れていくという事実も忘れて、僕達はただ固まっていた。
街の方から、時報が聞こえてくる。明日が来てしまった。時間は非情にも過ぎてしまうし、過去となった景色はいずれ、現実から消えていく 。絶え間なく、世界は揺れ動いて僕達を置き去りにしようとするのだ。
「湊」と僕が切り出す。
「うん、分かってる」
湊は柵から手を離し、下に降りる階段の方へと歩きはじめた。
「街に帰らないとな。家族も待っているから」
湊が言うと、僕は声は出さずに、彼の背中に向かってコクリと頷いた。
螺旋階段を下り、街へと歩いていく道のりは行き道よりも短く感じた。きっと世界が削れているせいだ、と僕は自分に言い聞かせる。それで、心臓が跳ねる音も幾分か和らいだ。
街に着くと、人々の喧騒は一箇所に集まっていた。そこには、目印のように高いポールに吊るされた日の丸国旗が翻っている。だが、それよりも目につくのは東京ドームと見紛うほど大きな宇宙船だろう。入口周辺には多くの人々が列を成していて、その手には漏れなく、乗車券である書類の束が握られていた。当然、湊もそれを持っていた。彼はリュックにそれをしまっていたようで、列に並ぶ前に、きちんとクリアファイルに挟んでいた書類の束を取り出した。
「これで、一旦はお別れだね」と湊は絞ったような声で言う。
僕は乗車券を持っていなかった。あれを交付されるのは一部の選ばれた人間だ。僕はその枠に入ってはいなかった。
「……また、会えるよな。俺待ってるから」
僕は口を噤む。答えられなかった。また機会があったとして、選ばれる確証などないのだ。僕は自分が港より優秀でないことを知っている。
「……待ってるからな」と、湊は念押ししたが、それでも僕が頷くことはなかった。
時間がたち、行列は宇宙船へと吸い込まれていく。先程列に並びはじめた湊がどこにいるのか、もはや検討がつかなかった。
ぼうっと宇宙船に呑まれていく人達を眺めていると、作業員の一人が僕に近づいてきて「書類は?」と尋ねてきたので、持ってないよ、とジェスチャーを交えて僕は首を横に振った。それを見ると作業員はすぐに去っていった。
やがて、列にいた全ての人々が船内に収まると、エンジンが点火したのか宇宙船はその場で揺れて砂煙が舞った。本当にあの大きな宇宙船が空を飛ぶのだろうか、と僕は不思議に思う。宇宙船の底部から煙が吐き出される度に、そのまま爆発してしまうんじゃないかという不安がよぎるのだ。
だが、そんな杞憂を吹き飛ばすように、宇宙船は噴射口から火を吹かせ、その大きな体は白煙に包まれながら宙に浮いた。暗い空に向かって上昇していく。
宇宙船は徐々に小さくなっていき、見えなくなるのはあっという間だった。地上に残された僕は宇宙船が消えた夜空を見上げて、しばらくは満点の空を眺めていた。暗い空の上に、薄らと白い煙が伸びている。その煙が完全に消えてしまうまで、僕は空を仰ぎ、何かを探していた。ずっと目を凝らしていたけれど、何かが見つかることはなかった。
帰り際、遠くの方から爆発音が聞こえてくる。恐らく、活火山が噴火したのだろう。最近は珍しいことではなかった。
肌に冷たい風が突き刺さり、僕はブルッと震えた。
また明日になれば、あの展望台を訪れよう。今でも空は見えているけど、探し物はまだ途中だ。全部見つけることが出来なくとも、見つけたものはせめて記憶にとどめておきたいと、僕はそう星に願った。
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