願い事

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願い事

「トラックに轢かれると、転生できるんだって」 爽やかな初夏の香りが届くころ、白く滑らかな肌と紅をさしたように赤い唇。目元にほのかな色香を纏う君は、僕を見やるとぽつりと呟いた。 学校帰りのカバンを持った手が闇に溶け込み、ほとんど見えなくなってしまう。そうして僕が君の方へ視線を投げると、「大型のトラックだと、より転生しやすいそうよ。でも、本当かしら?」と、わずかな明りで浮かび上がったその口角を上げる。 「最近じゃ流行っているからね」 猫も杓子も、というと大げさかもしれないが、ここのところの僕の町――いやこの世界そのものが壊れかけている。そういっている僕たちの目の前で、一人のワンピースの女性が狂ったように大型トラックの前に躍り出た。 急ブレーキをかける間もなく女性は……、あとは想像にお任せしよう。 「この異常な世の中に飽き飽きしてるんでしょうね」 「あのトラックの運転手も気の毒だな、どうみてもあの人は自殺じゃないか。これで前科がつくのかよ」 「ううん、そうじゃない。あなたは知らなったのね?ずっと議論されていた問題の法律が昨日ようやく可決されて、早々に変わったらしいわ。転生希望者が続出してる今、轢かれて死ぬ人があまりにも多すぎるから」 君がスマホに視線を落としながら、丁寧に僕に解説をする。 「問題の法律?何がどう変わるのさ」 「ようするに轢いた側は無罪になるのよ」 「じゃあ、悪意ある場合はどうするのさ」 「そんなこともいっているほど、死にたい願望が多くて――この国は、もう余裕がないんでしょうね」 のしかかる税金と低賃金に加え、いまや人口爆発で他国に限らず食糧危機が起こっている。すでに異常気象と温暖化で世界の飢餓は青天井。僕たちの食べるものは日々減っている。 僕はそこそこ裕福な家庭だったので今はまだマシだが、数年後にはいよいよ僕も先ほどの女性のように身を躍らせる一人になるかもしれない。 「転生したら……どうなるのかしら」 「もしかして、君……転生があり得ると思ってる?」 「あまりにも死が当たり前で、現実が現実じゃ思えなくなっちゃった。だから、ちょっと想像してみたの。でも転生しても一人は寂しいわ、誰か仲間が欲しい。一人じゃ、きっと辛い。孤独で耐えられない。ねえ、もしそうなったら――あなたが、私を助けてね?」 そうして君は僕の手を取った。ほんのりと暖かな感触が僕に伝わってきて、思わず僕もその少しだけ小さな手を握り返す。 その長い黒髪は風に揺れ、まるで誘惑するように僕の心をかき乱した。 「そう。絶対に助けるよ。君のためなら――」 その言葉の先を紡ぐことはなかった。 僕の目の前で、君は跳んでいた。 繋いでいた、と思っていた手は勢いよく消えていき、それはとても一瞬の出来事で、周りの音は後から聞こえたようなきがする。 そうしてやっと僕は、事態を把握した。 やっと止まったトラックと、その前に倒れる赤く染まった君。 僕たちの後ろからトラックが突然やってきて、君だけを撥ねたのだと気づいたのは、君があり得ない角度で僕を見つめていたからだ。 地面までもが赤く染みだし、そして君は僕に何かを伝えようとしているようにみえた。 口がゆっくりと開く。 まるで僕に向かって――、たすけて、といっているような気がした。 とっさに動けない。 君を助けたい、助けたいのに。 誰かが電話したのだろうか、救急車の音が近づく。 でも、もう遅かった。 君は、君だったものは道路に横たわっている。 駆け寄って、君の手が冷えていくのをただ僕は握りしめ、そのかつて美しかった顔立ちをぼんやりと眺めていた。 僕は身悶えし眠れずに延々と過ごす日々が続く。 そうして僕は君がいなくなった世界こそが偽物で、君が旅立った世界が新しい世界のようにも思えて始めていた。
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