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「こんなのってきっと正しくない」
彼女はいった。この世の悪という悪を嫌ってしまう彼女だからこその発言だったのだろう。彼女の服から香るタバコの匂いがこの世の正しさの倫理観を変えていた。
「このまま二人でどこかに行ってしまおうか?」
僕は言葉を飲み込んだ。ここで彼女とどこかに行けたなら、どんなに素晴らしいだろう。しかしそんな無責任な行動を取れるほど、僕は大人ではなかった。だから僕は黙っていた。彼女もまたそれ以上何も言わなかった。お互いがお互いを理解しているのだから。そういう何気ない自信が僕らを結びつけていた。
「ごめんなさい、もう行かなくちゃ」と言って彼女は立ち上がり「またね」といった。僕は、その手を、引き止めることができなかった。まだそっちへいかないで。なんて淡い期待はあっけなく無くなった。
どこへ行ったっていないはずの彼女の姿を探してしまう。彼女がいつも纏っていたタバコの匂いがした。香りの方へ目を向けると全く違う人だった。まだ、彼女の姿を探してしまう。そんな消化しきれていない感情を連れ添っている。どこかのJ-popの歌詞みたいだ。こんなことって本当に起こるんだ。だなんてどこか他人事で。もう彼女がいないなんて知っていたのに探してしまうのは、彼女への未練の表れなのだろうか。
これは夏が終わる少し前のことだった。ただ梅雨のじめじめした空気がどうにも心をけがしていた。彼女がいたらこの天気をどう思うだろう。天気の悪さに幻滅するだろうか。このくらいの天気がちょうどいいだなんて笑うだろうか。天気の話ができるくらい気がおける関係だったことを思い出し、また彼女を探した。彼女が何を思ってここから去ったのかはわからない。
ある日、手紙が届いた。僕宛の、差出人は見たことのない名前。でも、なぜか読まないといけない気がして封を開けた。お世辞にも綺麗とは言えない文字、本来句点があるはずであろう場所に打たれたピリオド、ああ、見たことがある。彼女だ。この不格好さが好きだった。清く正しく生きようとしたこと、僕との何気ない想い出、そして君は幸せになってね.なんて言葉がなぜか胸に残った。僕は、君がいないことが一番、幸せじゃないのに、勝手にいなくなって、勝手に、勝手に。自然と涙が込み上げる。袖が濡れていくのがわかる。君「は」幸せになって。の「は」は彼女が幸せじゃなかった事を意味しているのならそんなの嫌だよなんて言葉も届かないのだろう。届かない言葉をどうしたら伝えられるだろう。
まるで魔法みたいな人だった。正しさを追い求めていた。試験では良い成績を残していたし、世間一般の悪を許さない姿勢でいつつも悪に寄り添っていた。「ちゃんと理解してみたいんだ、悪いことをする人にも何か理由があるはずだから」が彼女の口癖だった。憂いを帯びていることくらい、彼女は分かっていただろう。悪にどう向き合うか分からなくなっていく彼女を見るのはいい気分とは言えなかった。悪に騙されていく姿を見るのはとても胸が痛かった。何か、手を、差し伸べていたつもりだった。きっと僕には理解できない痛みや苦しみがあったのだろう。この世界はすごく残酷だ。何もかもが自分の思い通りになるわけでもないし、努力をしたって叶うわけでもないし、善い人ばかりが得をするわけでもない。この世界に本当の正しさなど存在しない。だが、僕の中では彼女が正解だった。彼女が1+1が0だといえば1+1=0の方程式が出来上がってしまうし、チョコレートが果物だといえばチョコレートという果物を作り出せてしまうのだろう。そんなちっとも正しくないことをこの世界に当てはめてしまう。彼女を作り出せる勇気もなければ、この世界の正解を導ける自信もない。だからずっと彼女を探してしまうのだ。この問いは彼女ならどう捉えるだろう。どう自分の中へ落とし込み、考え、言葉にするのだろう。ああ、こんなに考えて、どうしよう。こんなに想ってどうしよう。まだ知らぬ未来を生きるため。彼女の存在が欲しい。
「このまま、二人でどこかへ行ってしまわないか?」
彼女は言った。
「君が苦しそうな顔をしているとどうも調子が狂う」
「大丈夫だよ」
なんて笑ってみせた。ちゃんと笑えていただろうか。
「大丈夫だよ、逃げたって、大丈夫」
大丈夫だよ。苦しくなんてない。その声は震えていて、でもこの一生懸命なこの言葉だけで立ち直れてしまったのだ。なのに、この言葉を彼女に渡せなかったことが悔しかった。彼女をここに留めておきたかった。留められなかった。君が向こう側に行くなら、笑って僕も行くつもりだったのに。
そんな君は言って、行って、いって、逝ってしまった。
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