4月 ③

10/10
前へ
/192ページ
次へ
立ちすくんだまま微動だにしない、近藤課長。 言い返せない彼の姿を初めて見た。 「今日の代金はいらん。ただし、この件が解決したら、この老いぼれに焼き肉を奢らせろ」 奢らせろ? 奢れ、じゃなく? 変わった元上司と変わった元部下。 私もいつか変わった刑事になるのか……心配。 『大切な人なら大切にしろ』 『焼き肉を奢らせろ』 たった二つの言葉だけでも、芹沢さんの人となりがわかった。 変わっているけれど人として素敵だということ、部下想いだということ、それに器が大きく、刑事として相手の気持ちを考えられる力が強いということを。近藤課長と同じ。 「……わかりました。異論を言っても聞き入れてもらえないでしょうし」 「ふんっ。相変わらず可愛げが無いな。また近いうちに来てくれ。必ず、やつの本性を洗い出しておく」 この喫茶店へ入って来たときとはまるで別人。 マスターの顔と刑事の顔。 前にユズさんが言っていた『演技力も刑事には必要』と言われたことを思い出す。 マスターの姿が演技か、刑事の姿が演技か、今の私には判断ができない。 「お嬢さん……いや、望月巡査、この頭でっかちを頼みますよ。こいつはこう見えて、繊細なんだ。そして気づいているとは思いますが、柔軟性がなくコミュニケーションがうまくない。俺に言わせれば、まだまだポンコツで半人前。だからあなたの高い柔軟性とコミュニケーション能力で助けてやってほしい」 「い、いえ、私なんて、そんな」 話しやすかったマスターとは違い、大先輩の刑事だと思うと緊張し、返答がたどたどしくなった。 芹沢さんに私の名字は伝えていない。近藤課長も私に対して希子としか言っていない。 でも知られていたということは、きっと調べられている。絶対に。 どこまでの情報を握られているか不安になったけれど、特別知られてまずい経歴はない。 高校も警察学校も平均的な成績で卒業。建築会社のときだって大きなミスはしていないし、平凡の手本でもおかしくないくらい。 ずっと当たらず触らずの人生を過ごしてきた。 「ロールケーキ、凄くおいしかったです。また食べに来ます」 社交辞令ではなく、本心だった。 近藤課長は浅く一礼して「ご馳走さまでした」と言い、出口へ向かってゆく。 近藤課長が先に扉の外へ出る。私も続いてその場を後にしようとしたとき「望月巡査」芹沢さんに呼び止められた。 「……はいっ」 「何事も失敗してもいい。それは君が行動したという証拠だ。何もしなければ失敗はしないが、ただそこに居るだけの置物になってしまう。失敗を怖がる必要はない。失敗は前に進んでいる証拠だからな」 鋭い眼光の中には、揺らぐことのない力があった。
/192ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2623人が本棚に入れています
本棚に追加