3月 ⑦

10/10
2212人が本棚に入れています
本棚に追加
/74ページ
つい険しい顔を向けてしまう。 さっき依知花さんと話したとき、自然な演技ができなかったことを思い返すと、日頃から慣れておくべきは正論。 「ひ……陽之季さん、じゃあ今日は宜しくお願いします」 感じたことがない、変な緊張。 近藤課長は花が咲いたみたいに顔を明るくさせ「任せろ、希子」とエプロンを受け取り腕まくりをした。 包丁でケガをさせたくない、名前で呼んでほしい、捜査一課の課長でエリートなのに、こんなことを言うなんて想像もしていなかった。 まるで私は子供扱い。 これが世の中でいう溺愛? 大切にしようとしてくれている発言や行動は、気持ちがひしひしと伝わってくる。 仕事のみの関係で夫婦になったのなら、ここまで気づかう必要はない。 そして私が『陽之季さん』と呼んだときの顔。 キラキラとした笑顔で、喜びが溢れていた。 かなり強引な溺愛。 ほんの少しだけ、心のトゲトゲしていた先端が丸くなる。 「じゃあ、私は夕飯ができるまでどうしていればいいですか!」 「テレビを見るか、適応に本を読んでてくれ」 ……これじゃ。私、お嬢様かお姫様。 「嫌です。テレビはいつもそんなに見ないし、本棚には好みのものがありません。難しい話ばっかり。恋愛系が無しなんて、人生半分損してます。そんなんだから、女心も……いえ、何でもないです。そうだ、掃除ならいいでしょう?」 「早口でよくわからなかったが、じゃあ、頼む。いつも掃除ロボットに頼ってばかりだから助かる」 優しくしてくれてるのに、何で毎回、噛みつこうとしちゃうのだろう…… 負けず嫌い? 強引さに苛立っている? いきなりの結婚だから? 私は掃除機を動かしながら自問自答を繰り返した。 部屋の角や小さな隙間は、やっぱりロボットだけあって埃を取りきれていない。 ふとそう思った瞬間、埃と共に疑問が取れた。 ……そっか。 許したくないんだ、心を。 心の隅から隅まで見せてしまったら、どうなるかわかっているから、私はこんな態度を…… 彼に嫌われたくない。 突き放されたくない。 好きになったこと、後悔されたくない。 今、近藤課長を失ったら、私は……前が見えなくなる、きっと。
/74ページ

最初のコメントを投稿しよう!