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場所を変えようかと、ほとんど強制的に連行されたのは、近くの喫茶店だった。高級バーで酒を飲まされるのかと思っていたが、津村はブラックコーヒーで、正寅も安心してコーヒーを頼んだ。
うるさい桜庭と、気遣いの中澤はいなくなり、津村と一対一の面談となった。
正寅の気持ちは揺れ動いていて、どうにも決心がつかなかった。家に、というか母に電話したい気持ちも強かったが、津村に丁寧に説得されると頷かざるを得ない気持ちにもなり、同時に不安と期待が波のように交互に押し寄せた。
「もう一度だけ、チャンスをくれないかな」
津村が穏やかに言った。
「せめて一晩、できれば数日かけて考えて、それからやっぱりダメだってなったら、こちらも諦めるよ。実際、虫のいい話だしね。うちはマスコミ対策のために、君を利用しようとしてるわけだ。君が以前、そういうことで離職したのもわかっていながらだから、タチが悪い」
「いえ……そこまでは、思わないんですが」
正寅はテーブルに目を伏せた。合成天板のつるつるの表面には、無数の細かいキズがあり、そこに映る店の風景も正寅の姿も歪んで見えた。
「ブランクが気になるなら、大丈夫だ。山岳救助のボランティアもしてたって聞いてる。何度か人命救助もしたとか」
正寅はうなずいた。そしてゆっくり息を吐いて、顔を上げた。
「あの……こんなこと言うのは、本当に失礼だと思うんですが」
津村は黙って正寅を見返し、続く言葉を待った。
「救助は、普通は入れない場所に入るための手段でした。以前、問題になったときにも言われたように、役得っていうか、権利を都合よく使って趣味に没頭してたって言うか……他の人みたいに、ちゃんとした目的じゃなく、邪心が」
ふふっと津村が笑い、正寅は当惑した。怒られると思ったら、笑われた。
「それが断る理由?」
「……ええ、そうです。それが6割……ぐらいで」
「4割は?」
「桜庭ですかね」
ふふっと津村はまた笑った。
「君たち、付き合ってたんだって? なんで別れたの? 聞いてよければ」
「聞かないでください」
正寅は本心で言ったのに、津村はまたおかしさをこらえきれないような顔でフッと笑った。
「桜庭さんは、いい仕事してるよ。人を見る目がある。悪いリーダーじゃないと思うけどね。どうしても嫌なら、もちろん班を変えるけど、桜庭さんのとこは欠員あるらしいんだよね、ここ2年半ほど」
「僕を待ってるとか、言わないでください」
「いや、君を待ってると思うな。災害救助隊の志望動機、半分が『モテそうだから』なんだけど、邪心だよね? あと『重機が好き』ってのとか、『制服が格好いい』なんだけど、どう思う?」
「誰よりも早く荒れた土地に入って、土砂崩れで転がってきた石を拾いたい、とは違うでしょう? 災害を喜んでるみたいだし」
「御崎くん、君が見つけた石が土砂崩れの原因を突き止めたこともあったよな?」
「1回だけです」
「軽い崖崩れ現場で、近くに似た箇所があるからって予防に役立ったこともあったよな?」
「いや……知らないです」
「上でもうちょっとヤバいの来ますよって予言したこともあったよな?」
「たぶん、作り話です」
「調査記録、残ってるから、作り話じゃないと思う。君は雑談のつもりで言ったのかもしれないけど、ちゃんと聞く人がいて、対応も取ってきた。いろんな趣味の人がいて、それが本職に役立つことだってある。私の後輩で、めちゃくちゃアニメオタクがいて、被災地で子どもに絵を描いてあげて、常にどこでも大人気っていう、そういうのだっている。人間はいろんな面を持ってるからいいんじゃないかな」
正寅は返事の代わりに息をついた。
「というのも含めて検討してくれたらいいよ。戻るなら、ナルハヤでね。君を疾病休暇扱いにしてるから、3年が期限なんだよね。3月には完全に免職になってしまう」
津村はそう言って、コーヒーを飲んだ。
正寅もため息しか出ないことを隠すために、コーヒーを飲んだ。津村はブラックだったが、正寅はミルクも砂糖も入れていた。それが子どもっぽさにも思え、正寅は茶色いカップを見て、勝手に劣等感を抱いた。
「お父さんは、その世界では有名な人なのかな。私は詳しくなくて知らないのだけど」
津村が話題を変え、正寅は俯いていた顔を上げた。
「大学の講師をしていて、それなりに名前は通っていたと思います。父は研究熱心だったし、博学でした。今の僕には足元にも及ばないぐらいの」
「尊敬してた」
津村が質問ではなく断言するように言い、正寅もうなずいた。
「尊敬してます。生きてたら、科学者として、もっとたくさんの発見をしてたと思います」
「息子に、そんなに目を輝かせて言われたら、お父さんも照れてるだろうな」
津村が言い、正寅は我に返った。
「家に電話したいんですが」
「そうだな、今日はこれで終わろう。気が変わったら連絡をしてほしい」
津村が名刺を出し、同じものは封筒にも入っていたが、正寅は改めて受け取った。
「もちろん、桜庭さんを通してくれてもいい」
そう言われたが、正寅は苦笑いして、津村部長にご連絡しますと言った。
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