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山岳警察の隊長から連絡があったのは、それから1ヶ月ほど過ぎた頃だった。どこかの大学の先生が会いたいって言ってきてるらしい、と。
「どうする?」
隊長の奥谷は、通話の向こうで何か食べながら話しているのか、途中で咀嚼音がした。
「人間は嫌だ」
正寅が言うと、奥谷は笑った。
「相変わらずだな。まだ怖がってんのか。もう世間はおまえのことなんて忘れてるぞ」
バリバリ、とせんべいでも砕くような音が続く。
「このまま消えたいんですよ。透明人間になりたい」
正寅が本気で言っているのに、奥谷はさらに笑った。
「何、面白いこと言ってんだ。毎日、雪ばっかり見てるから、頭がおかしくなってきただろ」
そこで、一拍、間が空いた。おそらく食べていたものを飲み込んだのだろう。奥谷は空白時間がなかったかのように続けた。
「石のことで話したいことがあるそうだ。トラ、そういうの専門なんだろ?」
「専門じゃないです。僕は単なる災害救助……」
「災害救助って言えば、そっち方面からも問い合わせがあったらしい。トラが降りてこないなら、こっちが登るって言ってるんだよな。面倒だから、お互い腹割って話してくれないかな。アカウント繋いでいいか?」
「嫌です。連絡しません」
「じゃ、トラのを渡してもいい?」
「ダメです。渡したら、アカウント破棄します」
「じゃ、大学の先生はどうなんだよ。そんな悪い人には見えなかったし、大丈夫だって。トラの力を借りたいって言ってたぞ。トラ、誰かに頼られるのって、ものすごく大事なことなんだって。話ぐらい聞いてやれ。おまえは、そりゃ傷ついたかもしれないけど、拒まれる気持ちだってわかってるだろ。話を聞いて、納得できなけりゃしょうがない。でも会う前に断るってのは違うんじゃないか?」
説教めいたことを言いながら、奥谷は、ぐびっと何かを飲んだ。
「酒、飲んでんですか?」
「非番だよ、いいだろうが。災害救助の方は姉ちゃんの声だったぞ。たぶん美人だ」
「いや、声しか知らないでしょ」
「なんか、おまえが降りてこないなら、こっちが行くって言ってたぞ」
「口だけですよ。無視してください」
「そろそろ降りて来いよ。うちはおまえの窓口じゃねぇんだぞ、ったく」
プツンと通話は終わった。
正寅はそっと携帯電話を裏返しにして机の端に置いた。
心がざわつく。
自分が怯えていることに気づいて、正寅は両手で顔を覆った。
幸い、正寅がいるのは、素人が登ってこられる場所でもない。そして尾根に行かなければ、携帯の電波も入りにくい。
尾根に近づかないようにしよう。
正寅はそう心に決めて、明日も吹雪くといいなぁと願った。
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