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 1月の末としては珍しく落ち着いた天気が続き、正寅は下山した。そして麓の町の知り合いにスーツを借りて東京へ出た。  災害救助隊の本部へ出向くのは、おそらく入隊式の日以来だった。それからはすぐに訓練所に入り、そこからは希望と適性に合わせて各地に配置された。正寅は山陰、九州を経て、日本アルプスをエリアとする中部地区へと異動した。奥谷とはその頃に知り合い、最初はひよっ子扱いも受けたが、少しずつ実力を認めさせてきた。  大きな災害では全国から隊員が集められるので、何度か召集も受けた。力及ばず悔しい思いも苦しい思いもしたが、たった一度でも「ありがとう」と言われれば、傷ついた気持ちは癒やされた。  あの世界にまた戻れるか、というと正寅は自信がなかった。  捏造疑惑とそれに伴う警察沙汰によって、まったく違う傷を負ってしまったからだ。人が怖いという状態では、災害時に人を救えるわけがない。  だから断ろうと決めて来た。  津村に面会のアポを取ると、執務中ではなくて夜の食事に誘われた。断りにくくなるなと思ったが、正寅は津村に合わせた。彼が緊急で呼び出されることがあっても、正寅が呼び出されることはない。暇な方が相手に合わせるべきだと思った。  土壁に小さな黒曜石が埋め込んであり、そこに筆文字で『瀧』と彫ってある店の前に行くと、中澤が待っていた。 「看板が小さいから迷われてるんじゃないかと思って」  彼がそう言って、正寅は表札サイズの石を見た。いい石だなとちょっと見惚れる。  中に案内されると、奥の小部屋だった。他もいくつか小部屋があるから、きっと政治家が内密の話なんかをする料亭なんだろう。あるいは芸能人がお忍びで来るような店なのだろう。  オレンジ色の温かい光に包まれた和室に入ると、テーブルには写真でしか見たことがない津村と、嫌になるほど見たことがある桜庭がいて正寅は驚いた。なぜおまえが同席する? とは思うが、部長の前で怒鳴ることもできない。 「トラ〜、久しぶり」  ひらひらと手を振る彼女を一瞥し、正寅は津村に頭を下げた。 「津村部長、今日はお時間をいただき……」 「挨拶はいいから、飲もう、飲もう」  軽く桜庭が言い、正寅は笑みを浮かべている津村からグラスを受け取った。
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