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「お母さーん! ちょっと、来てー!」  彼女は部屋にいるであろう母親を呼んでいる。すぐにリビングから出てきたのは、五十代ぐらいの女性だった。 「どうしたの?」  無表情でそう言い放つ母親は、明らかに彼を受け入れてはいない様子。 「この人、近くの森の中で倒れてて。怪我もしてるみたいなの。リビングに運ぶの手伝って」 「どうして?」 「どうしてって、怪我してるからって言ってるでしょ」 「だから、どうして?」 「もう」  親子のやり取りは平行線だった。無理もない。見ず知らずの人間の治療を好意的に行う善人ばかりではないことぐらい彼にも理解はできる。 「すみません。突然お邪魔してしまって。ここで構わないので、少しだけ休ませてもらえませんか?」  彼は女性から腕を戻し、上り(かまち)に腰を下ろした。壁にもたれるようにして体を預ける。 「ちょっと待っててください」  娘は母親に対して睨みつけるように冷たい視線を送っている。 「お母さん! もしかして、充電してないでしょ? バッテリー見せてよ」 「バッテリー? なんでよ」 「いいから、早く! スマホ出して!」  娘は怒りを抑えるように我慢しながらも、棘のある口調で母親に言う。バッテリーのなにがそんなにも気に入らないのか、彼には理解ができなかった。  母親がポケットからスマホを取り出す。それを見た彼女は、「やっぱり」と落胆したような声を出した。 「十パーセント切ってるじゃん。アイデンはちゃんと充電しなきゃいけないっていつも言ってるでしょ! ほら、早く早く!」  女性は母親の手を持って部屋の中へと消えていく。なにかこの家のルールのようなものがあるのかもしれない。  二人が消えた廊下で、彼は上着をめくってみた。長袖の薄手のシャツを着ていて、インナーには半袖のTシャツ。下は紺色のジーンズに足元は黒のスニーカー。鞄などは近くになかったが、なにかを持っていたような記憶は残っていた。そういえば、と自分のスマホを探してみる。ジーンズのポケットを探ってみるが、どこを探してみても見つからない。それどころか、財布も鍵もなにもない。  自身の身分を証明するものが皆無だった。  頼りになるのは記憶だけだ。玄関の下駄箱の上には小さな手鏡があった。痛む体のまま立ち上がり、鏡を覗き込んでみる。  写っていたのは、短髪の男。二重瞼に濃い眉、面長な顔、髭はなく綺麗な肌をしていた。これが自分、そう思ったとき朧げだった記憶の扉が開く。
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