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河出湊。それが自分の名前だと確信した。大学二年生の二十歳。そうだ、確か季節は五月。ゴールデンウィークだったはず。そこで友人二人と旅行へ出かけていたんじゃなかったか。
その二人は? と疑問に思っていたところで、部屋のドアが開いて彼女が出てきた。
「立ち上がって大丈夫ですか?」
「ああ、すいません。鏡があったので、自分の顔を見ていました。そしたら少し思い出してきて。河出湊って言います。河出も湊もさんずいの方です。まさか自分が軽い記憶喪失になるなんて思わなくて」
「河出湊さん。素敵なお名前で。わたしは宮沢詩と言います。うたは詩の訓読みですね。ああ、そんなことよりもこちらへ。歩けますか?」
詩は気を遣ってくれる。「なんとか大丈夫」と答えて彼女に続くようにリビングへと入った。いや待て、母親は良く思っていないだろう、と立ち止まろうとしたとき、彼の視界には見たこともない光景があった。
母親はリビングにあるダイニングテーブルに腰を下ろしていたが、その付近にある壁から伸びたコードを自分の右腕に挿し込んでいたのだ。
「あら、いらっしゃい。近くの森で倒れていたそうで、ごめんなさいねさっきは愛想のない接し方で。アイデンの充電を忘れていて、どうしても冷たい言い方になってしまったみたいだわ。お恥ずかしい、おほほほ」
母親はまるで病院で点滴を受けているように白いコードを確かに腕に挿し込んでいた。携帯の充電器のような白くて細いコードだ。
「え? あ、え、なにを? それは、一体?」
「湊さん、こちらへ。ソファに座ってください。すぐに救急箱を用意しますから」
詩に促されて四人掛けの布目のソファに腰を下ろす。少し痛みが走ったが、それどころではない。彼の頭の中には母親の腕から伸びるコードのことしかなかった。ソファはダイニングテーブルに背を向ける形で配置されている。
何度も振り返り、母親を見る。彼女は先程とは打って変わったようにニコニコと穏やかな表情を見せていた。
異様な光景に恐怖感が湧き上がってくる。明らかにおかしな場面だ。本物なのか、それともなにか仕掛けがあるのか。伸びたコードはダイニングテーブルの近くにある白い壁から出ている。それを腕に挿し込んでいるのだ。異常としか思えない。
「お待たせしました」
詩が木の箱に入った救急箱をテーブルの上に置く。そこから湿布を何枚か取り出した。
「ちょっと服脱いでもらえます? 上でいいので」
「え」
見ず知らずの女性に裸を見せるのか、そう考えると母親に抱いていた恐怖感が詩に対する恥じらいへと変化していく。
「背中とか腰とか打撲してるかもしれないし。ほら」
服の端を持たれて無理矢理シャツを脱がされる。どうしよう、と思っている間に上半身は裸になっていた。
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