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袋小路に迷い込んだような清香の表情を見て、管理人は尋ねた。
「どうかしましたか」
「え、引っ越したことは聞いたんですけど、引っ越し先がわからなくて……」
清香が真に困惑している様子を見て取って、管理人は打ち明け話をするように言った。
「森澄さんね、スーツケース1つだけで出て行ったんですよ。妙でしょう?」
「じゃあ、引っ越しトラックとか来なかったんですか」
「そう。貴重品だけ持って行ったみたいなんですよ。まるで旅行に行くみたいに。部屋の家財道具とか、置きっぱなしなんです。業者に頼んで処分してくださいって言って、その料金を置いてね」
管理人のその言葉が、清香の頭の中で火花を散らしながら反響した。
家財道具を置いてスーツケースだけで出て行った?
まるで旅行のように。
しかしそれは、片道切符の旅だ。よもつひらさかへの。
清香は藁にもすがる思いで、管理人に成美の部屋を見せてほしいと頼んだ。
管理人は「うーん、家族の方じゃないとね」と渋面を作って考え込んだが、中学時代の親友だという清香の言葉が信頼できると思ったのか、了承した。
そこで清香は管理人立会いのもと、成美の部屋に入ることになった。
6畳ワンルームの部屋は家具など最小限の物しかなく、きちんと整頓されていてよそよそしいほど生活臭がなかった。
それでも、かけたままの淡いグリーンのカーテンや洗面所のフェイスタオルなどに成美の生活の名残が感じられて、清香は胸が苦しくなった。
南向きの部屋は日当たりが良く、初夏の日差しがバルコニーに降り注いでいた。清香は管理人に断ってからバルコニーに面したカーテンを開け、ガラス扉も開放した。
バルコニーの向こうには、川が見えた。
両岸に桜と思われる木が並んで、葉が生い茂った両側の枝が触れ合って、アーチのようになっていた。
清香はその眺めに見入りながら、成美の実家が川のすぐそばにあって、川の土手に座って2人でお菓子を食べながら話をしたことを思い出した。
成美は川が好きなのだと、清香は心の中で呟いた。
だから1人住まいのマンションも、川の見える部屋を選んだのだろう。
川を眺めていると、時間も川とともに流れて自分たちは時間の外に時を忘れて佇んでいる気がすると、清香はぼんやり思った。
が、脇にいる管理人の存在を思い出し、我に返った。
そう、ゆっくりしてはいられないと自分に言い聞かせて、清香は成美の勉強机の上に視線を走らせた。
そこには、まるで彼女へのメッセージのようにメモがいくつか置かれていた。
その1枚には、「アケローン川を渡る」と記されていて、ほかの1枚には「引っ越し屋加呂」という文字と携帯の番号があった。
アケローン川を渡る?
これも謎だった。
気になってスマホで調べると、アケローン川とは冥界の入り口のある川だとわかった。
「よもつひらさか」と冥界関連でつながり、清香の不吉な予感はますます濃厚になった。
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