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まず清香が、それから道幸が成美の舟に飛び移った。
成美は半睡状態だったが、「成美!」という清香の声で我に返った。
「清香! それに道幸さん……。ここはどこ?」
「後でゆっくり説明しよう。とにかく、ここから出るんだ!」
と道幸は言って、櫂を使って漕ぎ始めた。しかしいくら漕いでも、雷鳴と怪物の咆哮が響く血のにじんだ闇の世界から抜け出せなかった。
道幸の額から、汗が滴り落ちた。
「畜生、どうやって脱け出せばいいんだ」
清香は破れかぶれに「ここから元の世界に戻りたいんです!」と天井に向かって叫んだ。すると、稲妻と咆哮が静まって、闇の中に3つの頭を持つ怪物が巨大な姿で浮かび上がった。
その首には、無数の蛇がうごめいていた。
その迫力に、さすがの道幸もひるんだ。
成美は呆然とし、清香は成美の腕をとって震えていた。
「元の世界へ戻りたいなら、私の質問に答えろ!」
怪物の声は、あたりを制圧した。
「生の彼方へ向かう3本の線とは何か」
道? 電線? 線路?
清香は必死に考えを巡らせた。
その時舟が揺れ、その拍子に水音がした。清香は、自分が今舟の上にいることを改めて意識した。アケローン川に……。
「川よ! 3本の線からなる漢字」
清香が叫ぶと同時に舟は大きな渦に呑み込まれ、世界が反転した。
気付くと、3人を乗せた舟はT川を漂っていた。初夏の日差しが現世の温もりを痛いほどに押し付けてきた。
「よかった。元の世界に戻れたんだ」
清香と道幸は涙を流さんばかりに喜び、成美も悪夢に似た体験から目覚めてきて、経緯をぽつりぽつりと語った。
それによると、成美は生きているのがつらいという思いを抱えてネットの中を浮沈している時に、引っ越し屋加呂の広告を目にしたのだという。
それにはこう書かれていた。
「アケローン川を渡って
苦しみばかりの俗世から逃れて、新天地へと移住しませんか
トランク一つでOK
格安 引っ越し屋 加呂」
「心が弱っていて、魔が差したんだね。これからは、困った時は相談してね。私にでも兄さんにでも」
そう言って、清香は兄に目配せした。
「みんなで頑張って一緒に生きていこう」
道幸は成美に励ましの言葉とともに、包み込むような視線を送った。
その視線を受け止めた成美の顔は、生きている証に紅潮した。
清香はそれを目撃して、「これで何もかもうまくいく」と胸をなでおろした。
(了)
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