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悪魔と怪異。
「お困りですか」
不意に声を掛けられた。顔を上げると、紅と黒のチェック柄をしたスーツに身を包んだ男が佇んでいた。足音はしなかった。扉も動いていない。だけど男はそこにいた。穏やかな笑みを浮かべた彼と目が合う。お困りですか、と繰り返した。
「お見受けしたところ、妹様のために何か出来ないかと悩んでおいでのようですが」
内心を見透かしたかのような言葉を掛けられる。
「何とかしましょうか?」
何者なのかもわからないそいつは、ただ、今僕が一番欲しい言葉を口にした。何とかって、と問い返す。
「そうですね。妹さんの寿命は間もなく終わりを迎えます。それを百年ほど延ばして差し上げましょうか」
「……出来るの?」
「タダとは申しません。そんなに都合の良い話が在るわけ無し。いただく対価がございます」
「払う。だから妹を助けて。寿命を延ばして」
男は肩を竦めた。やけに様になっている。
「老婆心からご忠告を。坊ちゃん、中身も聞かずに契約を結ぶのは控えた方がよろしいですよ。今後の人生でとんでもない貧乏くじを引いてしまうに違いありません」
「花帆を救えるのなら貧乏くじくらい、いくらでも引いてやる」
だって僕は花帆を守ると誓ったから。あの、初めて指を握られた日に。やれやれ、と男は首を振った。
「そういう善心、眩しいですね。妹思いの素敵なお兄様だ」
いいから、と先を促す。
「早く花帆を助けてよ。さあ、早く」
「せっかちですね。あと三時間は寿命も残っているというのに」
「苦しんでいるの、見てわからないの。すぐに解放してあげたいんだ」
「そのために貴方は私に対価を払うのですね?」
「払う」
「何を渡すのかも聞いていないのに?」
「うん」
男は目を瞑った。しかしすぐに開く。
「では、契約せいり……」
言い終わる直前、男が身を躱した。僕と彼の間を何かが通過する。天井に到達する直前で、それは止まった。巨大な、鎌?
「ギリギリセーフ。妹思いは立派だがね、すんなり甘言に乗り過ぎだぜ。立花太一君」
名前を呼ばれて戸惑いを覚える。いつの間にか、一人の看護師さんが僕を背にして立っていた。短く真っ黒な髪が肩口で揺れる。手には身長の倍はあろうかという巨大な鎌。白いズボンを履いた足は細い。そして声の感じから、女の人らしい。男に続いて何処から現れたのか。
「そんでてめぇ、私の縄張りで気楽に営業なんざ出来ると思ったか? なあ悪魔よ。子供の善心に付け込んで詐欺紛いの契約を結ぼうとしやがって。私が見逃すわけねぇだろ」
女の人が再び鎌を振る。男の首に届く寸前で、しかしまたしても避けられた。おやおや、と命を狙われているにも関わらず悪魔と呼ばれた男は平然と受け答えをする。
「これはどうも。相も変わらず子供の守護者を勤められているようで。よく飽きませんな」
「飽きるかバカ。子供の願いが私の生まれ、存在している理由だって知ってんだろ」
「怪異風情のくせに、この病院においては無類の強さを誇るなんてつくづく歪な方ですね」
「わかっているからコソコソ太一君と花帆ちゃんを誘惑しに来たな? まったく、間一髪だった」
「きちんと条件をお伝えしようとしましたよ? ただ、お兄様の妹様を思う気持ちが前にのめり過ぎていたためお話をする暇が無かったのです」
「聞かせる前に契約を結ぼうとしたの、ちゃんと押さえてんだよ。とっとと出て行けスカポンタン」
病室の中で女の人は大鎌を振り回し続け、男は全て避けた。異様な光景に圧倒されながらも我に返る。
「やれやれ、こんな調子では契約どころじゃありません。お望み通り帰るとしましょう。妹様は残念でした。お悔やみ申し上げます」
「うるせぇ」
男が一礼をしかけた。待って、と咄嗟に口を挟む。
「花帆はどうなるの!?」
二人の動きがピタリと止まる。男は薄い笑みを崩さない。女の人は唇を噛んだ。
「……このままだと、花帆ちゃんは亡くなる」
「私なら終わる寿命を延ばせるというのに」
「黙ってろクソ悪魔」
待って、と僕は繰り返した。
「助けられるんでしょ? 僕に出来ることは何でもするから、お願い、花帆を助けてよ」
「やめておけ太一君。悪魔と契約を結んだら必ず後悔する」
女の人は僕を制した。だけど必死で首を振る。
「花帆を助けられなかったら、それこそ一生後悔する」
そして男に向き直る。
「貴方、悪魔なんだね。僕の魂を貰うつもり?」
おやおや、と悪魔は両手を広げた。
「こんなお子さんにも知られているとは私も有名になったものです。仰る通り、貴方の魂をいただきます。ただしご心配なさらず。今すぐにではなく、そうですね。こちらも百年後に致しましょうか。妹様と充分現世を満喫した後、貴方は私と一緒に来ていただきます」
「地獄、に?」
「はい」
やめておけ、と女の人が鎌の切っ先を悪魔に向ける。
「そんなに花帆ちゃんと一緒にいたいのなら私が別の方法を施してやる。自然の摂理に逆らうからあまりやりたくはないのだが」
ほほう、と悪魔は目を丸くした。
「どうなさるおつもりで?」
「太一君の寿命を半分に切り分け花帆ちゃんに与える。百年は到底無理だがそれぞれあと三十五年ずつは生き長らえることが出来る」
「たかだか怪異の貴女にそんな芸当が出来るので?」
「守護者舐めんな。やってみせらぁ」
「半分にしか出来ないのですね。私なら百年も延ばせるのに」
「口の減らねぇ野郎だな。専門分野が違うんだよ」
さて、と悪魔が左右の指を絡ませる。二人が此方を向いた。
「如何なさいます? どちらを選びますか?」
「悪魔はやめておけ太一君。地獄行きなんてお勧めしない」
「ですが百年、共にいられますよ」
「甘言をやめろってんだよ」
二人を見比べる。そもそも、と初めて疑問が頭を過ぎった。
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